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織田家 その日、歴史が動いた

本能寺の変から山崎の戦いまで明智光秀に3回つっこんでみる

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謎というのは心惹かれるもの。歴史の場合、政治その他の事情によって証拠隠滅されることが珍しくないため、謎が謎を呼んで人を魅了し続けているという例は多々あります。

日本史の場合はやはり本能寺の変関連ですが、その締めくくりに当たる天正十年(1582年)6月13日に行われた山崎の戦いに関することも含まれるでしょう。
「光秀が秀吉に負けた戦のどこが謎やねん」と思われるかもしれませんが、光秀の行動にツッコミどころがありすぎるんですよこの辺。
細かいところまで言えばきりがないのですが、今回は大きく三つに分けてツッコんでいきますね。

明智光秀

明智光秀(WIkipediaより)

 1つ目 なんで安土城にいくのさ

まず一つめは、本能寺の変から山崎の戦までの光秀の行動です。
信長親子を討った後京都の治安維持をし、周辺大名を懐柔しようとしているところは(事前の根回しがなさ過ぎるとはいえ)いいのですが、一点だけ不可解なことがあります。
本拠で体勢を整えるのではなく、安土城へ行くために何日も使っているのです。
これは「アンタには味方したくありません!」と言ったとある大名が、安土城までの道にある橋を落としてしまったからなのですが、光秀はわざわざ橋を再建させてまで安土へ行っています。他に大人数で通れる道がなかったかららしいですが、そこまでして安土城へ入って何をしたかといえば、金銀財宝を略奪しただけ。
「信長の本拠を占領し、朝廷からの使者を迎えることで自らの立場をアピールしようとした」という説もありますけども、そんなもん後になってからでもできますよねえ。信長はもういないんですから。

ついでにいえば安土城を任されていた蒲生賢秀(氏郷のトーチャン)は信長の家族を守るため、自分の本拠である日野城(現・滋賀県蒲生郡)へ退いていたので、安土城はもぬけの殻に等しい状態でした。だからこそ占拠しやすかったのでしょうけどね。

「北陸へ行っていた柴田勝家への備えのため、近江周辺を固めた」ともいわれていますが、それなら余計な時間をかけて安土へ行くよりも、自分の本拠坂本城(現・滋賀県大津市)へ行ったほうが戦いやすいのではないでしょうか。京都への道も塞げますし。
こういうときって戦を長引かせれば長引かせるほど第三者がどっちにつくか割れることが多いですし、篭城して時間を稼げば光秀に味方する大名も出てきたかもしれません。

それに当時信長家臣団のほとんどは近畿を空けていたとはいえ、すぐそこの堺には信長が「友であり兄弟」と呼んだ丹羽長秀、そして三男信孝が長宗我部家攻略の準備をしていました。または、賢秀が他の大名と協力して戻ってくることもありえたでしょう。

秀吉が戻ってくることは流石に想定の範囲外どころか異次元レベルですが、この辺を考えると安土で兵にお宝をばら撒いている場合ではありません。
どうしても安土を取るというなら、光秀自身ではなく家臣に任せたほうが良かったんじゃないでしょうか。

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2つ目 なぜ沼地の多い山崎で迎撃したのか

二つめは、山崎に行った理由です。
秀吉が戻ってきたのを迎え撃つためとはいえ、なぜわざわざ有利とは言いがたい場所へ行ったのでしょうか?
当時の山崎は沼地が多く、兵を進ませるには向かない土地でした。光秀はこれを利用して数少ない道を塞ぐように布陣していますが、結局回り込まれて本陣を突かれ、敗退しています。
そもそも戦が始まる前から不利だったのは光秀のほうでした。細川親子その他味方につくと”思っていた”大名への期待はことごとく外れたどころか、高山右近など秀吉についた人物も多いです。
京極家など光秀についたところもあったのですから、無理に野戦しないで坂本へ戻ればいいと思うんですけども。
手段を選ばないなら京都を楯にするという手もありますが、光秀の性格上これはありえなさそうですね。

3つ目 速攻で坂本へ戻っていたほうがよかったのでは 

最後に、死んだときのシチュエーションについて。
光秀は一度山崎の後方にあった勝竜寺城という城に入っているのですが、ここは篭城できるようなところではなかったので、夜陰に乗じて坂本へ戻ろうとしています。

しかし、敗退と前後して明智軍からは多くの兵が離散していました。そこを狙って地元の農民が落ち武者狩りのためあちこちで待ち伏せしており、光秀もそうした一団に襲われて亡くなっています(深手を負って自刃したとも)

別に山崎周辺の人々が特別血の気が多かったというわけではなく、農民による落ち武者狩りは当時よくあることでした。
光秀ほどの人物が、戦の直後に落ち武者狩りがそこかしこで行われていることを予想できなかったのでしょうか?

 

以前、僭越ながら「本能寺の変は光秀のヒステリーが原因だと思います」という意見を述べさせていただきましたが、このあたりの行動もヒステリックというか、冷静さがカケラも見えないんですよねえ。宣教師ルイス・フロイスに「計略と策謀の達人であった」などなど智謀(悪巧み含む)を評された人物がやったこととは思えません。

しかし、もし光秀の行動の裏に黒幕もしくは共謀者がいたとしたらつじつまは合います。
その人物が裏切ったことにより光秀の計画が全て狂い、破れかぶれで山崎に向かったのだとしたら、この混乱ぶりもわからなくはありません。
共犯者が「京阪以西はこっちに任せて、アンタは安土を取りなさいな」と言っていたとすれば、わざわざ橋を再建してまで安土城を優先した理由もつきます。
この場合、一番怪しいのは秀吉になるんですけどねHAHAHAHAHA!
他に積極的に軍事行動を起こした人もいないですし、うーん。

 

長月七紀・記

明智光秀裏切りアニィたかはし

明智光秀といえば裏切り?(byアニィたかはし)

 

参考:『明智光秀―つくられた「謀反人」』 (PHP新書) 小和田 哲男



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http://ja.wikipedia.org/wiki/明智光秀

 

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