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マリー「あら連日の登場あ?」(Wikipediaより)

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フランス その日、歴史が動いた

ルイ16世がフランス革命から逃亡したのは亡命?それとも一戦交えるため?

更新日:

 

「ご利用は計画的に」。消費者金融のCMや公式サイトでお馴染みの文句ですが、計画的に行わなければならないのはお金がらみだけではありません。そもそも計画が立てられる人はあんまり借金とかしなi

まあそれはともかく、よほどの事情や不慮の事故がなければ、一度立てた計画は安易に変更しないほうがいいケースが多いですよね。
歴史上でも、ちょっとした偶然や当事者の気まぐれによって台無しになった計画というのは枚挙に暇がありません。
本日のお話もそんな例の一つです。

 

1791年(日本では寛政三年)のあす6月20日、ルイ16世一家が幽閉先のテュイルリー宮殿から脱出しました。

しかし彼らはたった2日後、フランス東部郊外の小さな町・ヴァレンヌで捕まってしまいます。ヴァレンヌ事件・ヴァレンヌ逃亡事件ともいわれる事件です。
今更の話ですが、フランス革命が江戸時代の出来事だと考えるとちょっと違って見えますね。

この事件、「ギロチンから助かりたいがために国王一家が逃げ出して捕まった」というように思われていることが多いですが、実はビミョーに違います。

 

亡命ではなく故郷を取り戻すための武人だった

この脱出計画の目的は、既に国外へ亡命したフランス貴族や王妃の実家・オーストリア軍と合流し、革命派に対抗することでした。
つまり、国王一家は最初から亡命するつもりではなかったのです。
しかしそんな細かい事情は市民の知ったこっちゃなかったので、もう怒りの矛先は下りず、国王夫妻の処刑へなだれ込んでいくことになります。

この失敗には、王妃マリー・アントワネットのワガママな言動が大きく影響していました。
先日は彼女の擁護をさせていただきましたけども、今回はちょっと難しそうです。

マリー「ちょっとあなた、この間の記事ではわたしのこと褒めていたじゃない!」(Wikipediaより)

マリー「ちょっとあなた、この間の記事ではわたしのこと褒めていたじゃない!」(Wikipediaより)

 

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神経質なマリー・アントワネットの日程変更で歯車が

この計画、机上ではうまくいくはずだったのです。
が、決行予定だった19日になって王妃が「侍女に裏切り者がいるから、あのコが非番にならないと危ないですわ」と言い出して計画を一日引き伸ばすというムチャ振りをしてしまいます。
言っていることはもっともなのですけれども、たかが侍女一人が馬車に追いつけるはずがないですし、何なら(ピー)して振り切るということもできたでしょう。
しかし王妃の意向を第一とするルイ16世や愛人フェルセンは、彼女の言う通り計画をずらします。

王妃の愛人フェルセンってことは大坂の陣の大野治長みたいな?(Wikipediaより)

ですが、これで困ったのは護衛につく予定だった兵士達です。
国王一家の逃亡計画を公にすることはできないため、彼らを指揮する高官たちはできるだけ詳細を言わずに護衛の指示を出していました。
そうしたデリケートな状態のところへ突然日程が変更になったのですから、うまくいくはずがありません。
こうして少しずつ成功の確率が下がり、露見の危険性が高まっていったのですが、当の国王一家はそれを知る由もありませんでした。

 

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愛人活躍しすぎて王様きれる

ルイ16世「愛人はさすがにムリだよ」(Wikipediaより)

それでも一応小型馬車での脱出は成功しましたし、一家と荷物を載せきれる大型馬車への乗り換えも成功しました。
手綱を取るのはフェルセン。彼は本来スウェーデンの貴族なので、ここまでフランス王家に尽くす必要はなかったのですが、マリー・アントワネットを見捨てることができず、徹頭徹尾国王一家を逃がそうと努力していたのです。
金額にして現在の日本円120億ともいわれており、さらに別の人物からも援助を受けて一家の逃亡を万全なものにしていました。
愛人といっても現代のようなアッハンウッフンだけの関係ではなく、騎士道における婦人への忠誠に近い感情があったと思われます。

しかし、これがおもしろくないのは当然ルイ16世です。外国人かつ妻の愛人のおかげで命が助かるというのはプライドが許さなかったのでしょう。
身分を隠すためとはいえ、御者まで勤めたフェルセンに「ここまでご苦労様。もうこなくていいから^^」と言って同行を拒否してしまいました。
フェルセンとしては命じられれば従うしかありませんから、ここで一人馬車を離れます。
一方その頃、パリは当然大騒ぎ。
「国王が逃げた!王妃も子供も一緒だ!!」
「捕まえろ!」
「国民を見捨てて逃げようとするなんて、もう俺たちの王様じゃない!!」
そうした声が一気に高まり、廃位や処刑を求めてルイ16世の像を叩き壊すなど、フーリガンよりタチが悪く、しかも人数の多い集団が大暴れしていました。

号令のための大砲は、国王一家にも合流するはずだった軍人たちにも聞こえました。
ちなみにこのとき脱出から4時間以上経っていますが、国王一家がいたのはテュイルリー宮殿から20km程度しか離れていないボンディという鈍足ぶりでした。現在であれば車で1時間もかかりません。
当時の道路事情や馬車の速度などを考えるにしても、遅すぎるにも程があるやろ。

 

余裕で脱出とおもいきやワイン積み込みすぎて

実はここにもまた、マリー・アントワネットのワガママが災いしています。
「陛下はのどが渇きやすいから、ワインをたくさん持っていかないと」などなどの理由で必要以上の荷物になっていたのです。
大きなものだけでもワイン8樽(”本”じゃなくて”樽”です)、調理用の暖炉2台など呆れるほどの大荷物。
当時の樽がどのくらいの大きさだったかははっきりわかりませんでしたスイマセン。でも、現在ワイン用の樽は一つで200リットル以上入るものが主流らしいので、そう変わらない大きさでしょうね。
となると、そもそも急いで逃げなければならないのに「ワインを樽で持って行く」ということ自体が無謀です。
しかも「家族揃って馬車に乗りたい」という理由で、これらの荷物+一家+お供の侍女が乗っていました。

いくら大型馬車でも、これだけ大荷物ではロクにスピードが出るはずもありません。フェルセンが慣れない道で上手く手綱を取れず、脱出直後に迷いまくったというのもあるらしいです。
踏んだり蹴ったりのいい見本ですね。
このおかげでシャロンという町(パリ中心から約190km)で合流するはずだった護衛も待ちくたびれ、使い物にならなくなってしまいました。
物々しい一団を目にした町の人々も「ママーあれなにー?」「見ちゃいけません!」(※イメージです)というような好奇の目を向けてきます。
これに気付いたショワズール(護衛部隊を指揮してた人)は「これ以上ウロチョロしてるとマズイ」と判断し、一度部隊を小分けにして物陰に潜ませました。

国王一家がシャロンへ着いたのはその後。しかも追手が近付いてこないことに油断し、まだ目的地とは程遠いというのにのんきに食事を始めてしまいました。
さらに「護衛とはそのうち合流できるから、ゆっくり行こう」というアホとしかいいようのない判断をしてしまい、ほぼ丸腰の状態でチンタラチンタラ進みます。
こうしてまた一つ、成功の芽が摘まれてしまったわけです。

ちょっとまだ食事終わっていないわよ

そしていよいよ国境間際のヴァレンヌまできて、「国王一家逃亡」+「アヤシイ馬車が国境へ向かっている」=「そいつらの中に国王いるんじゃね?」と素晴らしい情報分析能力を発揮したドルーエという人物と愉快な仲間たちによって、ルイ16世たちは捕まってしまったのでした。

 

愛人「次は大坂夏の陣やろうぜ」 王様・王妃「もう疲れたわ」

逃亡失敗を知ったフェルセンは再び一家の幽閉先まで行き、新たな作戦を提案しますが、もはやルイ16世もマリー・アントワネットも逃亡しようとは思っていなかったようです。
一旦はベルギーに引いたものの、フェルセンは諦めません。主君であるスウェーデン王グスタフ3世やオーストリア大使と共に救出の手立てを探りましたが、どれも成功することはありませんでした。

マリー・アントワネット処刑の後、フェルセンは母国でも失脚し、すっかり陰気な人間になってしまったそうです。
特に「王妃を死に追いやった」民衆という存在を憎悪するようになり、高圧的な振る舞いが多くなりました。
こうなると憎悪が憎悪を呼び、もはや手がつけられなくなるのはもはやテンプレ。

 

さらにこのタイミングで当時のスウェーデン王太子があまりに若くして亡くなったため、どこかの誰かが「フェルセンが(ピー)したんじゃね?」とまことしやかに言い出します。
そんな声を無視したのか知らなかったのか、ときのスウェーデン王カール13世は王太子の葬儀をフェルセンに取り仕切らせました。

が、葬儀当日、会場に現れたフェルセンに民衆が襲い掛かり、撲殺されてしまったのです。
このとき現場にいた兵士たちがフェルセンを庇おうとしなかったらしいので、彼らも民衆と同じ考えでいたか、あるいはカール13世が命じてのことだったのかもしれません。
国王一家の逃亡から19年後の、同じ日の出来事でした。

マリー・アントワネットが感情よりも計画を優先していたら?
フェルセンがフランス人だったら、もしくは王妃の愛人でなかったら?
ルイ16世が妻のワガママを止められる人物だったら?

どれか一つでも現実と違う点があったとしたら、フランス革命はここで大きく流れを変えていたのでしょうね。
それで誰が幸せになって、フランスがどんな国になり、ヨーロッパがどうなったかは誰にもわかりませんが、大きな出来事なだけに一歴史ファンとしては「もし」を考えたくなってしまいます。

長月七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァレンヌ事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンス・アクセル・フォン・フェルセン

 




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