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新田義貞公肖像/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

新田義貞を推しメンする5つの理由はこれだ!

更新日:

歴史上の人物では、たった一度の成功や失敗で名を残した人が珍しくありません。
特に、同時期により活躍した人物がいるとその傾向が強くなる気がします。
今回は久々?にそんな人を判官びいきしまくりたいと思います。

建武五年(1338年)の閏7月2日、新田義貞が亡くなりました。

足利尊氏と楠木正成の陰に隠れがちな上、本人に関する資料が乏しいため「義貞(笑)」のような扱いを受けがちですが、実はやってることや台頭・没落の経緯は源義経そっくりだったりします。何で義経に人気があって義貞はサッパリなのかわけがわからないほどです。
では、さっそく彼の生涯を見ていきましょう。

といっても、上述の通り彼に関する資料で信憑性の高いものがあまりありません。仮にも源氏の名門なのに、出生年や出生地もはっきりしていないほどです。したがって元服や享年が何歳だったのかもわかりません。
この時点で尊氏とはかなりの差がついてしまっています。涙目。

 

推し理由その1 貧乏だが人を結びつける才がある

ただ、行動パターンとしては尊氏よりも義貞のほうが武士らしいふるまいをしていることが多いです。
例えば、まだ鎌倉幕府を討つ前、義貞が家督をついで間もないと思われる時期の話にこんなものがあります。

新田氏は源氏一門とはいえ、北条家(政子の実家)と仲が悪かったので、無位無官という名門にあるまじき状態でした。このため決して裕福ではなく、領地も家名に相応しくないほど小規模だったのです。
そこで義貞は考えました。

「地元のお寺がボロくなってるから、何とかして再建費用を用意してやりたいんだけどそんなお金がないな……領地売っても足りないや……(ピコーン!)そうだ、お金ある人に協力してもらおう!」
ということで有徳人(当時の資産家。お寺に気前よく寄付する=徳が有る人という意味)を自分の領地に呼び、再建費用を寄付してもらう代わりに、その人とお寺周辺の警備を請け負うことでWIN-WINの関係を作り出しました。

後々戦に負けまくるので「義貞(笑)」扱いされることが多いんですけども、こういうところを見ると少なくともアホではなかったことがわかりますよね。
この有徳人が北条家と仲の良い人だったので、そっちへの取り成しをしてほしかったのかもしれませんが。
あいにく北条家からの扱いは変わらず、書状でも名前を間違えられるという有様でした。冷遇ってレベルじゃねーぞ!
義貞はそれでもしばらくの間幕府に逆らいはしませんでしたが、幕府vs楠木正成が争った千早城の戦いで決心します。

 

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推し理由その2 仮病も使える演技力

このとき幕府側として参戦していたのですけれども、義貞は「すいません持病のしゃくが出たので帰ります^^」といって戦線を離れてしまったのです。

本当に病気であれば京都なり大阪なり近場で宿を取って療養しそうなものですが、領地である新田(現・群馬県太田市周辺)まで帰っているあたりどう見ても仮病です、本当にありがとうございました。

理由は明らかではありませんが、もしかすると少数ながら士気も高く奮戦する楠木勢を見て、「優勢のはずの幕府軍がこんなに苦戦するということは、先がない証拠ではないか?」と考えたのかもしれません。
上記のゴタゴタがあった上で幕府軍のgdgdを見てイヤになっただけという可能性もありますが。
日頃の信用って大事ですね。

 

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推し理由その3 鎌倉幕府を倒したのはこの人なんですよ!

それを裏付けるかのように、千早城の戦いから二年後の元弘三年(1333年)5月、義貞は倒幕の兵を挙げます。
一筋縄ではいかず、苦戦や一時退却もしましたが、その度に親戚一同や他からの増援があったりして勝つことができました。
その結果、鎌倉で北条氏を撃破、鎌倉幕府は義貞の手によって、挙兵からわずか2ヶ月で滅びているのです。
この辺が義貞の絶頂期といえるでしょう。

 

推し理由その4 切ない!どうしてもライバルに人気で勝てない

しかし、義貞の運はそこまででした。
倒幕を果たした後、周囲の人々は(ただし躁鬱の気はあるけど)官位・家柄・人格の三拍子揃った尊氏ばかりをチヤホヤしだしたのです。
もちろん尊氏も手柄はありましたが、手のひらを返されたような形になって義貞はさぞ悔しかったことでしょう。
義貞も何とか認めてもらうべく、上洛して自分と一族に官位をもらいます。が、それはあくまで尊氏よりもずっと低く軽く、どう考えても倒幕一番の立役者には相応しくないものでした。
おそらく元々官位がなかったので、「いきなり尊氏と同等にはできないからとりあえずコレな」という扱いをされてしまったのでしょう。
もうやめて!義貞のMPはゼロよ!とでも言いたくなってきます。

その後尊氏と朝廷の仲が悪くなると、対抗できる人物として朝廷は義貞を担ぎ上げるのですが、戦でも政治的にも鳴かず飛ばず。周辺にサポートできる人物がいなかったのもイタイところでした。
一説には楠木正成から「義貞は役に立たないからクビにしましょう。物理的に」(超訳)とまで言われてしまっていたそうです。
あくまで武士としての誇りを大切にする義貞と、悪党(地元の親分みたいなもの)から成り上がった正成とでは価値観が根本的に違うので、理解しあうことができなかったのでしょう。

結局公家達から「義貞は血筋がイイからいいの!悪党風情がでしゃばるなwww」(超訳)といわれて正成は引き下がるのですが、もしここで朝廷の誰かが二人の仲立ちをしていたら、もうちょっとうまくいったのかもしれません。
まあ、そんなことができる人がいればそもそも尊氏と仲違いしてなかった気もしますけどねHAHAHA!

 

推し理由その5 戦略的撤退で再戦してるのに「逃げた」と言われる冤罪

そして迎えた湊川の戦いでは、義貞は場所を変えて再戦を挑んだ(そして負けた)にもかかわらず「お前が逃げたせいで正成が死んだんだろ!」という扱いを受けてこれまた涙目。
ついに朝廷からもはしごを外されてしまった義貞以下新田一族は、仕方なく北陸方面へ落ち延びていきます。このあたりには倒幕の際協力してくれた親族もいたので、彼らを頼ろうとしたのかもしれません。
しかしその他の家とうまく連携することができず、数の上でも不利だったためあえなく討死してしまいました。
矢を雨あられと浴び、これまでと覚悟して自ら喉を掻き切ったといわれています。勇ましい最期です。
太平記だと「犬死バロスwwwwwww」みたいな書き方されてますけど。そこまで言わなくたっていいじゃんと思うのはワタクシだけでしょうか。

「天皇に仕えたにもかかわらず見捨てられ、身内に滅ぼされた」点については義経とほぼ同じですし、「歴史に残る大手柄があるのに、現代でやたらと評価が低い」というあたりは松平忠直にも似ていますね。
地元群馬県では上毛かるたの「れ」に採用されていたり、明治時代には正一位を与えられているなど公的には悪い扱いではないのですけれども、いかんせん一般の人からの印象が悪すぎて(´;ω;`)
義経が大河になったんだから義貞もイイじゃんと思うんですけどねえ。

どなたか良い脚本か小説を書いてくだされば、もっとイメージが良くなる人なんじゃないでしょうかねー。

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長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/新田義貞

 




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