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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

陸奥宗光のカミソリ外交 不平等条約を解消した切れ味とは?

更新日:

 

「どこかで見たような気がするんだけど、詳しく思い出せない」ということはよくありますよね。デジャヴでもなく、もうちょっとはっきりしているんだけどもはっきりわからないという感覚です。
特に歴史の場合「名前聞いたことあるけどどんな人だっけ?」なんてことは珍しくないというか、特にその人が好きでもなければほとんどの場合がそうなんじゃないでしょうか。
今回はおそらくその一人であろうと思われる方のお話です。

Wikipediaより

天保十五年(1844年)の7月7日、陸奥宗光が誕生しました。伊藤博文が総理大臣をやっていた頃、外務大臣をやっていた人です。
となると頭がキレそうなのは何となくわかりますが、実はこの人の生涯はそれ以上にエキセントリックだったりします。

彼は奥州伊達家の分家の分家のような立ち位置に当たる、駿河伊達家という紀州(和歌山)藩の家に生まれました。当初の名前は「伊達陽之助」ですが、例によって宗光で統一しますね。
時代が時代でもあり、父の影響で尊皇攘夷思想に傾いていったのですが、そのトーチャンが失脚してしまったため、一家は困窮するハメになります。
こんな経緯だと「さぞ食うや食わずで苦労したんだろう」と思いきや、息子を江戸へ勉強に出したり、その宗光が吉原に通っていたりするのでその日のメシに困るような生活というわけではなかったようです。家財か着物を売ったか質に入れたのかもしれませんが、その金で女遊びしたらいかんやろ。
この頃と思しき写真に頭巾を被った姿の宗光が移っているのですが、これがもしかしたら吉原へ行き来する姿かと思うとちょっとジト目で見たくなりますね。

勉学に来たはずが別の方面に励んでいたことは当然お師匠様にバレ、見事破門になってしまいました。が、宗光はあまり気にしなかったのか、水本成美という別の先生について勉強を再開しました。切り替え早すぎ。
ここで坂本龍馬や桂小五郎、伊藤博文と知り合うことになるので、日本の将来的には結果オーライということで。
どうでもいい話ですが、高杉晋作といい宗光といい、伊藤博文の周辺って奇人変人もといエキセントリックな人が多すぎませんかね。ご本人も花柳界とかフグの逸話からしてアグレッシブですけど。

龍馬と仲良し 暗殺に激高

宗光は特に龍馬と親交が深く、一時期はずっと行動を共にしていました。
それだけに親友が暗殺されたときの怒りは激しく、紀州の一藩士だった三浦休太郎という人物に対し「お前が俺のダチを殺ったんだろそうに決まってるこの野郎!!」(※イメージです)という思い込みで、休太郎の滞在先を襲撃しています。
以前紀州藩と竜馬の間でイザコザがあったため「竜馬暗殺の黒幕は紀州藩である」との噂が流れていたので、アヤシイといえばアヤシイ相手ではあったのですが、とりあえず落ち着けと。

しかしキレるのは堪忍袋だけではなく頭もだったので、倒幕が成って明治政府に人が必要になった頃、宗光は岩倉具視によって中央へ呼び出されます。
用件は「ちょっと戊辰戦争のアレコレでメリケン(アメリカ)にお金払わなきゃいけないんだけど、アテがないから走り回って集めてくれ」というものでした。その額なんと十万両。もはや数がデカすぎて換算する気にもなれません。
が、宗光は大阪商人たちの間で交渉を重ね、一晩で借り受けることに成功します。もはやイリュージョンです。一体何をどうやったんだ。

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綱渡り人生

こうして中央での政治に入っていくのですが、まだ「お前薩摩だからなぁw」「そっちこそ長州のくせにwww」だのなんだのと言い続ける他のメンバーに嫌気が差して出奔。実家和歌山で静かな生活をしようとしましたが、最初の奥さんが亡くなってしまうなど相変わらずバタバタしていました。
翌年すぐ再婚してるんですけどね。ホント切り替えの早い人だ。

妻・亮子、先妻との長男・広吉と

その後政界に復帰しましたが、今度は西南戦争で反政府側と繋がっていたためお縄になってしまいます。どうしてそんなに綱渡りが好きなんだ。
しかも、塀の中でもせっせと妻へのラブレターや本を書いたりと全く悔恨の兆しが見えません。前しか見ないタイプだったんでしょうか。ここまで来るといっそ清々しいほどです。見習うべきかもしれない。
特赦によって少し早く牢獄から出ることができたのですが、何故かその後ヨーロッパへ留学することになります。伊藤博文が勧めたかららしいんですけども、出獄した直後の人間によくそんなお金があったものです。伊藤が用立てたんでしょうか。
渡欧後の宗光は、「西洋に追いつけ追い越せ」という言葉のままに猛勉強を開始します。そのやる気をもっと若い頃から見せておけというかそろそろツッコミ疲れてきました。

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藩閥をこえて実力で抜擢

二年の留学から帰国の後、宗光はいよいよ外交官として働き始めます。
まずはメキシコとの間で日本初の平等条約を結びました。意外に日本とメキシコって縁が深いんですねえ。
その後衆議院議員や農商務大臣(現在の農林水産大臣+経済産業大臣みたいな仕事)を歴任します。ちなみに農商務大臣をやっていた間にあの足尾銅山鉱毒事件が起きていますが、あまり積極的には動きませんでした。
宗光が当時の総理大臣・山県有朋に何か言っていれば、もう少し早く対策が取られていたかもしれません。どうせなら国外だけじゃなく国内もちゃんと見てほしかったものです。そしたらもうちょっと多くの人の記憶にはっきり残ったかもしれないのに。
外務大臣になったのは、意外にも?最晩年に当たる明治二十五年(1892年)のことでした。ここから「カミソリ大臣」とまで呼ばれた宗光の辣腕が発揮されます。
江戸幕府がなくなってもずっとそのままだった、各国との不平等条約(外国人が日本国内で犯罪行為をしても逮捕できないとか)の改正に動き出したのです。相手国はイギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど計15カ国。
宗光はこの15カ国全員に不平等条約の改正を認めさせた功績でもって子爵の位を与えられ、教科書と歴史に名を残しました。
その後も日清戦争の開始と終結(下関条約締結)にも大きく関わり、特に開始時はロシアやイギリスへ「口出ししないで中立でいてくれますよね^^」という約束を取り付けるなど活躍します。
が、彼が外交の最前線で働けたのはここまで。いつの日からか肺結核を患っていたため、宗光は職を辞して療養生活へ入らざるをえなくなりました。

が、国内の別荘はともかくハワイまで行ってるのはどうなのよ?とやっぱりツッコミたくなってきます。どう考えても長旅な海外に行くより、国内のあったかいところで養生したほうがいい気がするんですが。
当初兵庫で療養していたら、枕元で下関条約へのイチャモン(ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉)についての相談をされたらしいので、イヤになって遠くへ行ったんでしょうか。何で命が崖っぷちなときにまた勝負しようとするのよ。
病床での閣議と長距離移動、雑誌発刊のどれが堪えたのかはわかりませんが、外務大臣を辞職した翌年に彼は亡くなります。享年53歳、まだまだ活躍できたはずの年齢でした。
かつてキレて政府を出て行った原因である藩閥政治はまだ改善されておらず、今際の際まで「あのバカタレどもが」(超訳)と嘆いていたそうです。宗光と同様、藩閥をくだらないものと考えていた西園寺公望も「陸奥があの世に行く代わりに、藩閥のアホどもが(ピー)すれば良かったのに」(超訳)というようなことを言っています。
いろいろツッコミどころの多い人ではありましたが、国家の大事というときに出身地のみをあーだこーだと喚く連中よりははるかに必要な人物であったことは間違いないですからね。

今の政界でもやれ出身校がどうだの派閥がどうのと言っているあたり、100年以上政治家の頭の中身が変わってないってことになっちゃうんですけどそれでいいんかいな。あーあ。

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長月 七紀・記
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89




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