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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

禁門の変(蛤御門の変) のちの官軍が天子の都を焼いたテロ実行犯?

更新日:

「手段と目的が入れ替わる」というのは、一見アホな話のようにみえて実はよくあることです。これに堂々巡りが加わってしまうとまさに泥沼で、現代の年金問題やら少子化対策などはまさにそのドツボでしょう。

そして幕末には、もっと物騒な面でこの両方が起きていたことがありました。
元治元年(1864年)7月19日の、蛤御門の変(禁門の変)です。大河ドラマ「新撰組!」か何かで前者の呼び方をしていた気がするので、蛤御門の変で統一させていただきますね。
幕末のお話も久しぶりですので、いつも通りテキトーに当時の情勢をお話しするところから始めましょう。

応仁の乱以来400年ぶりの京都炎上

Wikipediaより

といってもいつも通りの構図なので、「またか」「飽きた」「zzzzzzz」と思われる方もいらっしゃるでしょうかね。
「(孝明)天皇がイヤだって言ってんだから異人と交流などもっての他!勝手に話進めるヤツは天誅!!」(超訳)とする尊皇攘夷派と、「もう開国しちゃってんだから、いいようにされないためにも奴らの手を知ることが先決だろ!頭固いんだよバーカバーカ!!」(超訳)という公武合体派があっちこっちで暗殺をはじめとした物騒なイザコザを起こしあっていた頃のお話です。
身も蓋もなさ過ぎる言い方ですけど、ホントにこうだから仕方ない。

蛤御門の変はその極みともいえる事件……というより半ば以上戦争みたいなもので、応仁の乱以来400年ぶりに京都の街全体が焼け野原になるという、朝廷にとっても幕府にとっても市民にとっても大迷惑な事件でした。

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会津藩主松平容保がターゲット

そもそものきっかけは、前の年に起きた「八月十八日の政変」という事件。
平たく言えば「長州藩その他尊皇攘夷派が京都から追い出されてぐぬぬ状態になった事件」なのですが、その後うまく解決できず、長州藩+浪人のイライラは最高潮に達します。
そしてそのストレスは、当時京都守護職(京都周辺の警備・警察)を担当していた会津藩主の松平容保(かたもり、新撰組とかのボス)に向かいました。元々仲が悪かった上に政的なイザコザも加わったとなると、もう手のつけようがありません。

松平容保(Wikipediaより)

そして長州藩の「ウチの殿様は悪くないのに、松平容保のせいで京都にいられなくなった!アイツがいなくなれば全部俺たちの思い通りになるのに!!」(超訳)という理由(口実?)で兵を挙げて起こしたのが蛤御門の変です
この辺人名が多くてワケワカメになるんですけど、出来事だけ見るとこれだけという。
というか「気に入らないから力づくで」ってジャイアンもびっくりな屁理屈ですわあ。

そもそも、松平容保を追い出すために京都でドンパチを繰り広げるというのがもう「???????」って感じですよね。
京都そのものが皇室の家も同然なのに、そこを荒らすことに憚りはなかったんでしょうか。孝明天皇はこの事件後(も)一貫して松平容保側の肩を持ち続けるのですけれども、そりゃ自分の家を焼いたヤツを擁護しようなんて気にはなりませんよね。
そして結局長州藩の意見は聞き入れられるどころか、「お前ら朝敵」という烙印を押されて討伐軍を差し向けられる羽目に陥るのでした。

 

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どうせあっちもこっちも暗殺しあってたような時代なんですから、容保だけをピンポイントで(ピー)した後、そ知らぬ顔で密かに長州派の人間を「じゃあこの人が京都をお守りすればいいですよね★」とでも言ったほうが被害も少なく、孝明天皇の心証も悪化せずうまくいったんじゃないかと思うんですけども。
いやー、エライ人の頭に血が上るとろくなことがないですね。これも古今東西共通ですが。
長月 七紀・記
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/禁門の変




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