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織田家 その日、歴史が動いた 豊臣家

秀吉とねねの夫婦ゲンカを裁いた信長の深イイお手紙 そこにはナゼか「天下布武」の印が!

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秀吉とねね(おね)といえば、戦国時代で一番有名な夫婦ではないでしょうか。ねねの別名は「北の政所」です。

ドラマでも秀吉が出てくれば必ずねねもでてきますし、当サイトでも、ねねVS淀殿の暗闘について書いた「関ヶ原の勝敗を決めた女たちのキャットファイトとは」なんて記事もあります。

女性の名前がはっきりわかっているのもそれまでの時代ではあまりないことでした。
足利義政の奥さん・日野富子くらいでしょうか。
紫式部とか清少納言とか、本名はわかっていませんからね。
「ねね」なのか「ね」という一字名に「お」をつけて「おね」だったのかはまだはっきりしていないそうですので、今回は「ねね」で統一させていただきます。

 

日本史上最強の女好きを支えた良妻

寛永元年(1624年)の9月6日、ねね=高台院が亡くなりました。
1549年生まれなので、76歳の生涯でした。(『寛政重修諸家譜』という資料では83歳)
今なら平均寿命前になるものの、当時としてはかなりの長命でした。

ねねと秀吉は当時では極めて異例の恋愛結婚だったと言われています。
しかも、当時はねねのほうが身分が高かったのです。
秀吉24歳・ねね14歳のときでした。
10歳下の中学生に惚れこんだって結構スゴイ話ですが、後々秀吉の好みを考えると何となく納得できるようなできないような……。
ちなみに例の淀殿とは少なくとも20歳離れています。

まだ秀吉は織田信長に使え始めたばかりの頃。木下藤吉郎なんていう平凡な名前。

先の見通しなんて何もない、自分の家より明らかに収入のなさそうな人に嫁いだねねの度胸もスゴイですよね。
その後秀吉の出世につれて女好きが明らかになってきても、ねねはずっと旦那さんに尽くします。

しかしそんなねねも一度だけキレかかったことがありました。
それは秀吉が初めて一城の主になった頃のこと。
身分も高くなり鼻高々の秀吉は、城下で浮気を繰り返します。
当然ねねの耳に入りました。
普通なら「もう別れてやる!!」と大ゲンカするところですが、そこでねねは全く違う手段を取ります。

なんと、あの信長に「ウチの旦那が浮気してるんです!あっちから結婚して欲しいって言ってきたのにひどくないですか!?」と訴えたのです。
繰り返しますが、「あの」信長です。

 

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信長「こら!はげねずみ!ワシも浮気を把握したぜ~」

よほどの剣幕だったのか、それとも最初からねねの味方だったのかはわかりませんが、信長はここで一計を案じます。
「まあまあ、お前は立派な嫁さんだし最近すごく美人になったんだから、つまらないよその女にヤキモチを焼くんじゃない。オレから見れば、お前はあのハゲネズミ(秀吉)にはもったいないくらいなんだからな!自信を持て!」
という励ましの手紙をねねに書いています。

これだけでもビックリですが、問題はこの手紙の末尾。
「あー、それからこの手紙はハゲネズミに見せてやるようにな」(☆以外ガチです)
要するに、「オメーごときに尽くしてくれる立派な嫁がいるくせに浮気してんだって?オレは知ってるからなこの野郎」というわけです。
しかも、このどうでもいい家庭内のゴタゴタに対して例の「天下布武」の印を押しているのです。この手紙を見た秀吉の反応は伝わっていませんが、うやうやしく手紙を受け取り、ガクブルしたことは想像に難くありません。
その後も秀吉の女好きは治らないんですけどね。

天下布武の印/Wikipediaより引用

 

 

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夫婦円満の秘訣は「妻をたてる」にあり!

でも、これで秀吉は「まず正式な妻を立てる」ようになっていきます。
信長の死後、小田原征伐のときも「ホントはお前に来てほしいけど、危ないから代わりに淀(茶々)を来させてくれない?」なんて手紙を書いていました。

どう考えても建前でしかないのですが、この建前があるのとないのとでは全然違いますからね。
当時淀殿は秀吉にとって唯一、初めての子供を産んでおり、アドバンテージがありました。
しかしここでヤキモチを焼いては、正室としてみっともないと考えたのでしょう。
なにより信長が化けて出てくるかもしれません。
ねねは手紙の指示通り、淀殿に小田原へ行くよう伝えました。

そしていくら側室を増やしても、秀吉はねねを離縁したり冷遇することはありませんでした。
ねねが秀吉にとって妻以上に、側近のような役割もしていたからです。
ご存知の通り、秀吉は一代で天下人にまで上り詰めたため、代々仕えてきた家臣がいません。
その代わり、子供の頃から面倒を見てきた人はたくさんいました。
特に加藤清正や福島正則は小さい頃から住み込みで秀吉に仕えていたため、寝食の面倒を見ていたのはねね。
成長した後も、秀吉が死んだ後もこの二人は特にねねの味方をしてくれます。

他にも、秀吉が関白になってからは朝廷との交渉を引き受けるなど、外交官のような役目もしていました。
その働きは、女性の最高位である従一位を与えられたことからもわかります。
秀吉にとっては妻としても側近としても欠かせない人だったのです。

それほどの人でありながら、ねねは「アタシが天下人の奥様よ!跪きなさい!!」なんて態度は全く取りませんでした。
逆に、どんどん天狗になっていく秀吉をたしなめ続けます。
「アンタ(小早川)秀秋に冷たいんだって?甥っ子なんだからもう少し優しくしてあげたら?」
などなど、秀吉が何かトラブルに見舞われるたびに仲介をしたりしています。
ホントできた奥さんです。

さきほど紹介した当サイトの記事や、ドラマだとドロドロのバトルを繰り広げている淀殿相手でさえ、最近の研究では「実はうまくやってたんじゃない?」という説があります。

しかし大坂の陣で淀殿は死に、秀吉の死後、出家して大坂城を出て、京都・東山のお寺「高台院」にいたねねは生き残りました。
そして9年後、そこで静かに天寿を全うするのです。

天下人の妻というよりも、夫の菩提を弔い続けた一人の妻としての最期でした。

長月 七紀・記

参考:

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http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/09/post_0f1a.html
http://8.health-life.net/~susa26/zakkityo/tegami/nobunaga.htm

 




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