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元寇の防塁跡

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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

元寇と北条時宗をスッキリ解説! 2度に渡る「文永・弘安の役」はいかにして行われた?

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「言ってもわからないヤツには力づくで倍返し」というのはあまり褒められた話ではありませんが、国同士の場合これがしょっちゅうあるのが困りもの。今日はその中の一つ・元寇のお話です。

建治元年(1275年)の9月7日、北条時宗がモンゴル帝国「元」の使者を龍ノ口(現在の神奈川県藤沢市片瀬)で処刑しました。

使者を斬るのは今も昔も宣戦布告同然。もちろん、当時の連絡手段では即座に知らされるわけではありませんが、帰りが遅ければ不審を招き、開戦になるのも必然。なぜ時宗はそんな乱暴なことをしたのでしょうか。

※TOP画像は元寇時に築かれた防塁

 

横綱化したモンゴル人の上から目線

実はこれ、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の間の出来事でした。ご存じのように元寇は2回ありました。最初から使者を斬るような野蛮人ではさすがになかったのです。

文永の役の前にも元からの使者が数回来ていたのですが、その手紙の内容は一見丁寧ば文面なのですが、

「お前の国は高麗(現在の朝鮮半島)と付き合いあったんだろ?
今度高麗はうちのシマになったから、うちにも挨拶に来いや。
まああんたら田舎もんだから大陸がいつの間にかうちらのものになったなんて事情は知らないんだろうけどねククク
乱暴はあんまりしたくないからなあ」

なんて超上から目線なもの。
鎌倉幕府も朝廷もこれにはイラっときます。
「どこの馬の骨かもわからんくせに、いきなり挨拶しに来いとか何様じゃゴルァ」ってなもんです。
朝廷では「あの無礼者に天罰を!」という祈祷が行われました。

それでも一応、幕府からは「きれてない、きれてない」と返礼の使者は出したのですが、元に行ったら行ったで「お前らスパイっぽくて怪しいから謁見はダメ」と門前払いを食う始末。
来いっていうから来たのにあんまりな話です。

元からの使者は、途中で引き返したものも含めると文永の役までに合計6回派遣されたといいます。
しかし「アナタ様に従います」という返事が得られなかった元は、「よっしゃ力づくじゃ!!」と戦支度を始めました。
哀れなことに、このとき日本へ渡るための船や食料を負担したのは高麗でした。
とばっちりを食ってしまったんですね……。

元寇防塁のある生の松原と博多湾

 

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「てつはう」は撤退のときに使われた

さて、日本でも元がそのうち攻めてくることは予想済み。鎌倉幕府は九州の御家人達に準備を進めるよう命じました。

やがて予想通り元軍は上陸、防衛戦が始まります。最初に上陸された対馬や壱岐島では防ぐことができず、多くの御家人や一般人が死んだり捕虜になったりしました。そして元軍が九州にやってきてから反撃が始まります。

九州の御家人達は大宰府(菅原道真が左遷されたところ・現在の太宰府市)に集まり、態勢を整えました。

このとき奮戦したのが竹崎季長(たけざきすえなが)。
歴史の授業で耳がタコになるくらい覚えさせられた「てつはう」の絵に出てくる人ですね。
彼は部下の「ちゃんと記録しないと褒美がもらえないだろうから、その人が来るまで待ちましょう」という言葉を「武士は早いモン勝ちなんだよ!敵の前で待つなんてできるか!オレについて来い!!」と振り切り、怪我を負いつつも元軍を一時後退させることができました。

ちなみに「てつはう」は後々の鉄砲のように攻撃するためのものではなく、追撃を防ぐために逃げながら敵へ向かって撃つという使い方だったそうです。
あの絵(蒙古襲来絵詞)は追撃中の部分かもしれないということですね。

蒙古襲来絵詞/Wikipediaより引用

 

ニッポンを救ったのは神風でなく謎の白装束軍団!?

しかし撤退したかに見えた元軍は九州の様々な町へ乱入し、女性や子供・老人を何万人も捕虜にして連れ去ったとか……。
御家人たちも多くが討ち取られ、絶体絶命かと思われたとき奇跡が起こりました。

国史大辞典という辞書でも

十月二十日、博多湾西部(福岡市)の今津―百道原(ももちばる)に上陸し、麁原(そはら)・鳥飼・別府・赤坂と激戦が展開された。日本軍は押され気味であったが、最終的な勝負がつかないまま元・高麗軍は船に撤退し、翌二十一日、博多湾内から元・高麗軍船艦は姿を消していた。高麗へ向けての撤退途上、いわゆる「神風」に遭ったようである。

と「神風」認定されております。この辞典はひじょうーに権威があるのですが、遭ったようである、とか曖昧です。

それが神風……ではなく、白装束の謎の兵士達でした、なんて話もあります。
30人ほどのごくごく少数でしたが、素晴らしい連係プレーで元軍に矢を放ち、海へ追い詰めたといいます。
しかし海に逃げた元軍は、これまた謎の兵船に襲われ壊滅。
残った者も海風に流されさんざんな有様で敗走した、とされています。
この白装束や兵船は八幡神という武士の神様の化身である、とされていますが、本当はどこの誰だったのでしょうね。

 

防塁を築き、隊列を組んで戦った

何はともあれ、こうして文永の役は終わりました。
しかしこれで済むはずがないと思っていた幕府は、九州の守りを固めるため船や防塁の整備を進めます。そこへ再び元からの使者がやってきました。

ここで執権・時宗は「この前、えらく苦戦したのはお前らが使者のフリしてスパイしてたからだろ!今度はそうはいかないからな!!」と使者を斬ってしまいました。
そう、日本の使者が元で門前払いをくった理由は、元が日本の使者がスパイであると疑っていたからなのです。

文永の役から7年後、予想通り再び元は日本へ攻めてきます(弘安の役)。
しかし、御家人達も「一度戦った相手にまた苦戦してたまるか!」と気合を入れなおしていたので、前回ほどの惨事には陥りませんでした。

前回の文永の役での被害の大きさは、ひとえに日本と元の戦法の違いにあったといわれています。
日本では名乗りを上げて一対一で戦うのが当たり前でしたが、元は集団戦闘が基本。これではあっという間に囲まれてやられてしまうのがオチです(でも、この常識、本当なのでしょうかね。鎌倉VS平泉など万単位での大会戦をやっていますしね~)。

ですから、弘安の役では全く違う戦法を取りました。
防塁に合わせて隊列を整え、集団で戦えるよう備えたのです。
中には塁を背にして戦うという荒業を駆使した河野通有(こうのみちあり)という人もいました。
この背水の陣ならぬ「背塁の陣」は味方から「河野の後築地(うしろついじ)」と賞賛され、大いに士気を高めたそうです。

元寇防塁

 

鷹島には10万以上の兵士が待機していた!?

その後は元軍を押し返すような形で海戦へと移り、日本側に有利になる中でやってきた台風によって、元軍は大損害を被ります。
でも、実は元軍には、鷹島 (現在長崎県に属する島)に10万以上もの兵士が待機していたのです。
どうしてそれを使って反撃してこなかったのかというと、答えは至って簡単。

なんと、兵を率いるべき将軍たちが我先にと船で逃げ帰ってしまっていたのです。
残された兵士たちは自力で船を作って逃げようとしますが、御家人たちが来るほうが早く、2~3万の捕虜を出しつつ壊滅してしまいました(最近、このときに沈んだ船が水中考古学によって発掘されて話題となっています)。

上司ひどいよ上司。

こうして時宗の判断は結果的に正しいことになったわけですが、問題はこの後。元寇は外国からの防衛戦だったため新しい土地は手に入らず、苦労した御家人達を満足させるような褒美を与えることができませんでした。

後に織田信長はこうした問題を解決するため、茶器などの珍品・名物を与えるようにしたのですが、まだ茶の湯が確立していない鎌倉時代に、そんな発想があるわけもなく……。しかもこの頃の将軍は(北条家みずからお飾りにしたとはいえ)あまり仕事をしてくれません。やはり相当なストレスがあったのでしょう。

弘安の役から3年後、時宗は32歳の若さで亡くなってしまいます。
そして、このときの御家人達の不満はやがて鎌倉幕府そのものへの不信へと変わり、倒幕へと向かっていくのでした。



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