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その日、歴史が動いた 徳川家 真田家

徳川秀忠の上田合戦 将軍史上最大のトラウマを抱えちまった!

更新日:

 

一度記憶に残った出来事が何度も脳裏に蘇ると、大体の場合良くないことが起きるものです。
良い思い出を何度も楽しめるのであれば幸せなことですが、これで悩む人のほとんどは嫌な記憶の再生を繰り返してしまってトラウマになっていることが多いですよね。

現代ではPTSDその他精神的な病として治療を受けることもできますが、大昔には当然そんなものはないですから、生涯悩み続けたであろう人もいます。

今回はその中でも一番有名だと思われるあの人の話です。

徳川秀忠

徳川秀忠肖像画/wikipediaより引用

慶長五年(1600年)の9月9日、第二次上田合戦が終了しました。徳川秀忠のトラウマになったアレですね。有名な話でご存知の方も多いと思いますが、いつも通り事実の確認から進めて参りましょう。

 

中山道の途中にあったのがトラウマの元・上田城 

関が原の戦いに臨み、家康は自軍を二手に分けて進むことを決めました。一方はもちろん家康自身が率いる隊で、こちらは東海道を進んで上方へ向かいます。

もう一方が秀忠を総大将とした隊で、中山道を使って同じく近畿方面へ進むことに。
そしてその途中にあったのが、戦国きっての人気武将である真田昌幸と幸村(信繁)の守る上田城でした。

当初、秀忠の目的は上田城攻略ではありませんでした。

流石に全軍で東海道を進んでしまうと、上杉家やその他西軍側についた大名から後方を攻撃された際に手詰まりになってしまいますから、二手に分けて、より確実に兵数を確保しながら進もうという方針になっていたのです。秀忠には、中山道沿いで西軍に与した大名を適当に威嚇して抑えるという役目もありました。

つまり、上田城を完全にスルーしていれば関が原で家康と合流し、兵数的にも戦術的にも東軍大勝利な体制を整えることができたはずです。抑えの兵は必要だとしても、秀忠自身がそこにとどまる必要はなかったのです。

 

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後世から見るとベッタベタな寡兵での作戦だったが 

しかし、さすがに老獪だったのが昌幸です。

「やーいやーいwww」的な挑発をしたことにより、秀忠は「ふざけろジジイ!!」とブチ切れ、さらには「潰さずにおけるか!!」と要らんヤル気まで出してしまったのでした。
といっても兵数の上では城方の十倍はいましたから、「こんな小城あっという間に捻り潰してくれる!」と思っていた人のほうが多かったでしょうね。

昌幸は、小勢であるが故の利点を生かした作戦で攻め手を翻弄します。
「一度打って出て敵をひきつけ、敗走したと見せかけて伏兵に襲わせ、さらに夜襲を仕掛けてたたきのめす」という、後世から見ると実にベタな手段で大打撃を与えたのでした。

これ、実は昔家康がほとんど同じ戦法を食らっているのですが、そういうこと倅に教えてやってなかったんですかね。「昌幸はこういう手段を使ってくるだろうから気をつけろ」くらいのことを言っておけば、もうちょっとマシな攻め方ができたんじゃないかと思うんですが・・・。

「城攻めは秀吉、野戦は家康」みたいなお決まりの文句がありますけども、家康も秀忠も小田原征伐とか見てるはずなのに、城攻めのテクニックを何も学ばなかったんでしょうか。せっかく数の上で有利なんですから、兵糧攻めにしていれば最低限の損耗で勝てたはずです。
「頭に血が上ってたから、根気の要る包囲戦はできなかった」と見ることもできますが、それはそれで情けないなあ(´・ω・`)

戦国IXA真田昌幸

どもども、老獪爺、昌幸タンです♪/wikipediaより引用

 

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えーっとね・・・合戦場へは・・・明日来てね、絶対! 

そして思うように行かずイライラ最高潮の秀忠の下へ、家康からの手紙が届きます。超略すると「9日までに美濃赤坂(現・岐阜県。関が原のちょっと東)に来るように!」というものでした。

……この手紙が届いたのは8日です。どこで○ドアでもない限り間に合いません。
家康としては多分「秀忠は多分この辺までは近付いてきてるはずだから、少し急がせれば間に合うだろう」と思ってギリギリに手紙を出したのでしょう。

が、現実には秀忠隊はずっと上田周辺にいたので、どうしようもありません。急いで出発したはいいものの、天候が悪くてスピードを上げることもできず、さらには関が原の戦い自体が一日で終わってしまったため、後詰と言い張ることも不可能になってしまったのでした。

これ、手紙を運んだ伝令の人も随分困ったでしょうね。

「殿は『秀忠は多分このあたりにいるはず』って言ってたのに、秀忠様どこにもいないんですけど!? もしかして俺迷った!! いやいや中山道で迷うなんてそんなバカな! 秀忠様どこですかあああああああ!」(※イメージです)

みたいな大混乱が起きていたのではないでしょうか。これでますます手紙を渡すのが遅れてたりして。
現代は即座に連絡を取れる手段が整っているので忘れがちですが、当時は現物の書状が届かないとどうしようもないですから……。

 

大坂の陣でトラウマ発動!急ぎすぎて大失敗 

秀忠が率いていた兵数は四万近く。家康よりも多かったといわれています。

もちろん他の大名の分も合わせれば家康のほうが多いのですが、「徳川軍本隊」は秀忠のほうといっても過言ではないわけです。それが間に合わないのですから、さすがの狸も肝が冷えたことでしょう。

これでは、大砲ぶっ放したとされるほど、小早川秀秋と愉快な裏切り者達を強硬な姿勢でビビらせたのも無理はありません。

やっと来た秀忠に家康は弁解の機会さえ与えず、しばらくは「お前の顔なんざ見たくねえんだよ^^」(※イメージです)という態度を取り続けたとか。

当然秀忠は反省しました……が、その方向がよくありませんでした。

この14年後に大坂冬の陣が起き、また家康と秀忠は別働隊として行軍しますが、ここで違う大失敗をやらかしてしまいます。
江戸から京都までを17日間で爆走するという強行軍を自分だけでなく歩兵にまで強いて、ろくに追いついて来れずすぐには戦闘できない状態にしてしまったのでした。

しかも途中でこれを知った家康が「そんなに飛ばすな、兵が使い物にならなくなるだろ」と注意しているのにガン無視した上でのことですから、狸の雷がまたしても大炸裂します。言わんこっちゃない。

 

ちなみに大坂夏の陣では途中で徳川義直(尾張家初代)の婚儀を挟んでいるからか、もう少し穏やかなスピードになっています。流石に三度めはないと思ったのでしょう。仏様ですら三度までですから、狸の顔はそこまでもたなさそうですし。

関が原の戦いは全国的に大きな余韻を残しましたが、徳川秀忠という一個人にとってはトラウマの塊でしかなかったんですね。自業自得だけど。

 

長月 七紀・記

 

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参考:上田合戦/wikipedia




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