ニコポリスの戦い/wikipediaより引用

欧州

ニコポリスの戦いでオスマン帝国軍がキリスト教諸国を撃破!

どんな家や国にも、一躍表舞台に出てくるきっかけとなった事件があります。

国の場合は戦争であることが多いでしょうかね。
商売で有名になったところもありますが。

本日はその一つ、あの大帝国が世界史にその名を轟かせた戦いのお話です。

1396年(日本では室町時代の応永三年)9月25日、ニコポリスの戦いでオスマン帝国軍がキリスト教諸国の連合軍を破りました。

28日説もありますが、ここではこの日の出来事として扱います。

 


ヨーロッパへ進出するには絶好の場所

宗教的に、オスマン帝国はムスリムを多数として多種多様。
キリスト教側から見れば十字軍の一つでもあったのですが、見事失敗しました。

というか十字軍って最初の一回しか成功してないな……。

戦闘が起きた場所自体も当時のブルガリア・ニコポリス(現地名ニコポル)と、日本人にとっては物理的にも精神的にも遠いところですので、いつも通りどの辺の場所なのか確認するところから参りましょう。

ヨーロッパ第二の大河・ドナウ川の黒海側、水源のドイツから見て最後の1/4あたりの場所にある町です。
別の方向から見ると、最近あまりニュースに出てこなくなったクリミア半島の真西からちょっと南にあります。

赤い線がドナウ川/wikipediaより引用

赤い線がドナウ川/wikipediaより引用

現在は4000人ほどが住む小さな町ですが、当時はブルガリアの首都でもあり、要塞・軍事都市として重要視されていました。

中東方面からヨーロッパへ進出しようとするオスマン帝国にとっては、足がかりになる絶好の場。

実際、1393年には、ニコポリスを奪ってさらに東欧・中欧へ攻撃を仕掛けようとしていました。

 


ハンガリーだけでは無理ゲーすぎる

首都を奪われたブルガリアはオスマン帝国に従属せざるを得なくなりました。

当然気分のいいものではありません。
オスマン帝国が”異教徒”であることも大きな理由になったでしょう。

「アイツらなんかにやられっぱなしでたまるか! 親愛なるキリスト教徒諸君、ブルガリアに力を貸してくれ!」(※イメージです)

みたいなことを言ったかどうかはわかりませんが、キリスト教圏の東端が異教徒のものになったことで、イングランドやフランス、神聖ローマ帝国などは懸念を強めます。
放っておくと、ブルガリアに変わって二宗教の境目となったハンガリーあたりでまたデカイ戦争が起きそうだったからです。

そしてハンガリーだけではオスマン帝国に抵抗できないことは自明の理でした。

というわけで、キリスト教国家が手を組んで対オスマン帝国連合軍を作ります。

中にはヴェネツィアやジェノヴァのように、
「取引先がオスマン帝国の領地になっちゃうと商売上がったりなんですよねー」
といった理由で海運など後方支援をした国もありましたが、まあそれはそれで。

当時イタリアは一つの国ではなく、現在観光名所になっているような都市を中心にした小国が乱立していました。
ヴェネツィアやジェノヴァもその一つです。

 


連合軍にありがちな内部分裂キタ━(゚∀゚)━!

ついでにいうと、この頃イングランドとフランスは百年戦争の休戦期間でした。

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後世から見ているからそう思うのかもしれませんが、近所の大国同士でやりあってる最中によく何千キロも移動して戦争しに行く気になったものです。これは後のクリミア戦争でも同じことですが。

地続きだったりして簡単に行き来できると「干渉するのが当たり前」みたいな感覚になっちゃうんですかね。もしかしたら、”余所様”って概念もないのかもしれません。

それはさておき、キリスト教連合軍は東へ進み、ニコポリスを奪い返すべく包囲します。

が、キリスト教側のトップだったブルガリア皇帝・ジギスムントがさほど優秀な人ではなく、こういうときの連合軍にありがちな内部分裂が勃発。
各国の利益や宗派の相違などで対立してしまったようです。あーあ。

しかも緒戦はキリスト教側が連勝していたため、「このままコンスタンティノープルまで行けんじゃねwwwwww」とナメくさっており、ニコポリスが城塞都市であることをすっかり忘れていました。

壁を崩したり遠距離から攻撃するための攻城兵器もろくに持ち合わせていなかったといいますから、油断のほどが伺えます。
後続隊がそういう兵器を持ってきたのに、先発隊が「はしご使って壁越えたほうが早いじゃんwww」と積極的に使おうとしませんでした。

次々とフラグが乱立していきますね。いっそ見事です。

 

フランス軍が勝手なことしたんだもん!

一方、オスマン帝国皇帝・バヤズィト1世はニコポリスを奪われまいと、入念な準備をしていました。

当時はまだ東ローマ帝国が細々と存続していましたので、コンスタンティノープルはまだオスマン帝国の首都ではなく、このときも戦闘中。
バヤズィト1世はニコポリスの救援を優先し、自ら軍を率いて進路を変えます。

こういう思い切りの良い采配は見ていて気持ちが良いですね。

そして【ニコポリスの戦い】が始まります。

トルコ側で描かれたニコポリスの戦い/wikipediaより引用

当初はフランス軍の騎士たちがオスマン軍の歩兵を散々に蹴散らし、優勢を見せていました。

しかし、そのうち功を競って個人行動が目立つようになり、形勢が変わり始めます。
これを見抜いたバヤズィト1世は、自軍に集団攻撃を徹底させてこれに対抗しました。

一時は皇帝自ら剣を取って戦うほどの緊迫した状況になりましたが、最終的な勝利はオスマン帝国のものとなります。

負けたほうのトップ・ジギスムントといえば、命からがら逃げたところまではいいにしても、「フランス軍が勝手なことしたから負けたんだもん!俺は悪くねぇ!!」(超訳)という小学生のような言い訳をしていたそうです。

確かにそういう面もなくはないですし、フランス軍のお偉いさんが何人も捕虜になっているので間違ってはいませんが、なんつーかアレですね。

 


気分が悪くなるほど処刑しすぎたって

フランス軍を含めた捕虜のうち、身分の高い者は後に莫大な額の身代金のアテにされました。

一般兵のうち、20歳以下の若年層は人質あるいは奴隷となってその場は助かり、他はことごとく処刑。
両軍の兵数も処刑された人数もよくわかっていないのですが、立ち会ったバヤズィト1世が途中で気分を悪くして退席したといいますから、想像を絶しますね。

だったら処刑しなきゃええやん。
という気もしますけど、オスマン帝国としては「まだ首都も決まってないのに、こんな大量の人質を養えるかーい!」と考えたのでしょう。すんなり返すと捕虜の意味ないですし。

ちなみに逃走した兵は、定員オーバーになったボートが転覆もしくは泳いでいる途中で溺死したり、陸に辿りついても身包みはがされて野垂れ死にしたり、やはり無事に帰りつけた人はほとんどいなかったようです。

バイエルン(ドイツの南にあった国)のお偉いさんですら「ボロ着に身をやつしてやっと帰国、その直後死亡した」ぐらいですから、これもこれで恐ろしい話です。

 

モンゴル→ペスト→オスマンでフルボッコな欧州

こうしてお決まりのように十字軍は失敗。
勝ったオスマン帝国も、この後、別の人に負けてしばらくは雌伏を余儀なくされてしまいます。

それでも「オスマンの脅威」というトラウマはヨーロッパ諸国の脳裏に焼き付けられ、その懸念は約60年後のコンスタンティノープル陥落=東ローマ帝国滅亡から現実のものとなっていきます。

ちなみにこの頃のヨーロッパは、
モンゴル帝国にフルボッコ

ペスト大流行で人口激減

オスマン帝国とのガチンコバトル
という踏んだり蹴ったりな状態でした。

中世に興味を持って調べ始めると、意外と原始的というかそれほど発達した時代ではないことに驚いたりします。
こんな調子じゃ、自国をまとめたり法を整備するヒマはないですよね。

長月 七紀・記

【参考】
ニコポリスの戦い/wikipedia


 



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