南光坊天海

南光坊天海/wikipediaより引用

徳川家

小栗旬が演じる南光坊天海って何者なの? 明智光秀説の根拠とは?

大河ドラマ『どうする家康』もいよいよ最終回を迎え、最大の話題となっているのが小栗旬さんの出演でしょう。

劇中で、あの南光坊天海を演じるというのです。

“あの”と言うのには、もちろん理由があります。

「南光坊天海の正体は明智光秀ではないか?」という説が流れているのです。

そんな馬鹿な……と一笑に付したい方も多いでしょうが、天海はもともと謎が多い人物であり、光秀説がその存在を際立たせているのも事実。

ではなぜ「天海は光秀」などと思われたりするのか?

いったい本人はどんな人物だったのか?

謎多き生涯を振り返ってみましょう。

なお「天海=明智光秀説の考察」を先にご覧になりたい方はこちら(→link)をクリックしてください。

 


生まれも育ちも謎だらけ

南光坊天海の生年は不明です。

寛永20年(1643年)10月2日に亡くなったとき、既にかなりの高齢で、100歳や110歳、はたまた120歳なんていう説も。

もし仮に100年前に生まれたとしたら天文12年(1543年)ですので、徳川家康と同年になりますね。

当時の長生き武将としては、以下の記事のように93才まで生きた大島雲八(うんぱち・実名は大島光義)がいまして、

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天海も100才ならギリギリで有りでしょうか。

生年が不明ということは、出生地や身分も同様で諸説あります。

・陸奥の芦名氏出身説

足利義澄の落胤説

・明智光秀が後年変装して天海と名乗った説

最も有名なのが前述の「光秀=天海」説ですね。

いかにも怪しい話でまさに眉唾ですが、ではなぜこんな説が囁かれたのか?という詳細については後ほど。

いずれにせよ当時の僧侶は知識人階層となりますので、どこかの寺で学び、優秀だったのは間違いないのでしょう。

幼少期に出家し、14歳で宇都宮・粉河寺に入って天台宗を学び、その後、延暦寺や円城寺、興福寺などでも学んだ……とされているのですが、この経歴もどこまでが事実か怪しいところです。

 


小田原征伐のころ家康と接点

南光坊天海は元亀2年(1571年)、織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、武田信玄に招かれて甲斐に移住したとされています。

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その後、天海は芦名氏に招かれて黒川城の稲荷堂に移り、上野の長楽寺にも滞在。

天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(喜多院)に落ち着いたとされます。

江戸崎不動院の住持も兼任していたとか。

現代でも、一人の僧侶が複数寺院の住職を務めていることがありますね。

また「天海」と名乗るようになったのもこの辺りのようです。

家康との接点を持ったのは天海が武蔵に来た翌年、秀吉の画策により徳川が関東へ移封されたときのことです。

表向きは【小田原征伐】の恩賞として、家康は前年から関東の検地を行っていて、その時点で天海の噂を聞いたのかもしれません。

また、小田原征伐の際、天海は既に家康の陣にいたとする説もあります。

いずれにせよ「小田原征伐の前後で家康と天海が知り合っていた」という点は間違いなさそうですね。

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この後、家康はたびたび仏法について天海の講釈を受けるようになり、まもなく参謀の一人として徳川家に組み入れられると、朝廷との交渉などを受け持ちました。

江戸の街づくりに風水の知識を活用したともいわれます。

家康や秀忠が亡くなった後の話ですが、江戸城から見て鬼門(北東)に寛永寺(台東区)を作ったのも、風水や陰陽道からの観点だったとか。

ちなみに、裏鬼門(南西)には増上寺(港区)がありますが、こちらは明徳四年(1393年)開基とされているため、天海と直接の関わりはなさそうです。

 


家康死後に崇伝や正純と論争

家康の信頼を得た南光坊天海は、その後、比叡山延暦寺の復興や、無量寿寺北院の再建などに携わりました。

政治的な面では、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件や、その前の大仏開眼供養などの席にいたり、少なからず関係した模様。

僧侶ですので、大坂での戦闘には直接関わっていません。あったとしても、戦後の供養などでしょう。

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その後の活動も、主に家康への仏法講義、朝廷との交渉、前述した寺院の再建などが主なものでした。

真っ当な僧侶という印象であり、むしろ、家康が亡くなってからのほうが目立つエピソードが多いかもしれません。

まず、家康が亡くなった際は、神号や葬儀などを巡って、以心崇伝(金地院崇伝)や本多正純らと争いました。

天海は「権現」、崇伝は「明神」を主張。

神道の流派の違いなどから起きたもので、天海は

「”豊国大明神”として秀吉を祀った後に豊臣氏は滅びました。”明神”では縁起が悪いのではないですか」

という意見でした。

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また、徳川秀忠が亡くなる間際に神号授与を打診したこともあります。

秀忠が固辞して実現には至っていませんが、天海がかなり高齢になっても矍鑠(かくしゃく)としていたようで、それ以前から罪に問われた人を救けようとするエピソードが目立ちます。

紫衣事件に関わった者たちや、大久保忠隣、福島正則徳川忠長などの赦免に奔走していたのです。

さらに天海は、個人的な念願として、一切経(大蔵経)の印刷と出版を考えていました。

一切経とは平たくいうと「存在しているお経のすべて」ですから、当然、膨大な量の木版が必要になり、その数なんと26万個以上。

費用も莫大であり、そう簡単に作れるものではありません。

しかし、この印刷・出版活動は幕府の支援を受けて取り組まれ、天海の死後である慶安元年(1648年)に完成しました。

日本の印刷文化史において、極めて重要な業績で、使われた木版の多くも今日まで伝わっているため、まれに公開・展示されるようです。

「正体は明智光秀?」説のせいか、怪しげな存在ともされがちな天海ですが、実際の事績としては徳のある行動を積んでいるんですよね。

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