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フランス その日、歴史が動いた

ナポレオンのエジプト遠征 戦果は散々だったけど文化的には結果オーライ!?

更新日:

 

英雄の条件といえば、戦争に勝つこと。
いや、戦争に勝ち続けた人が後々”英雄”と呼ばれるようになる、といったほうが正しいですかね。

そしてその戦う相手は、近所とは限りません。戦争に強ければ強いほど近所を蹴散らすのも早いですから、どんどん遠くへ領土を広げていくことになるからです。インドまで行ったアレクサンドロス、ガリア遠征を成功させたカエサルなどですね。
近代における英雄の一人であるあの人も、同様に長距離の遠征へ行っていました。

1799年(日本では江戸時代・寛政十一年)、エジプト遠征に行っていたナポレオンがフランスへ帰国しました。

フランスから見てエジプトは地中海の反対側。しかも砂漠と遺跡・歴史以外に何もないところです。
ではなぜ、ナポレオン自ら向かうほど力を入れて攻め込んだのでしょうか?

カイロのナポレオン

カイロに降り立ったナポレオン/Wikipediaより引用

 

あわよくばインドをゲッツすんべ! 

実は、お約束?のイギリス対策でした。
当時イギリスは既にインドを植民地化しており、エジプト他中東付近を通って連絡を取っていました。まだスエズ運河は開通していませんでしたが、それが最短距離ですからね。

インドから綿織物を大量に輸入したり、もちろん政治的な書簡のやり取りなどもあったことでしょう。
イギリス本国を攻めるには手間がかかりすぎると判断したナポレオンは、せめて経済力を削ぐことを狙い、あわよくばインドを手に入れるためにエジプトを攻めたのです。
いつものことですが地元民大迷惑やな。

エジプトは当時オスマン帝国の領土になっていましたが、支配を受け始めて三百年ほどの間に半ば自治国化。
軍事も自分達で行っており、マムルークと呼ばれる元奴隷の外国人傭兵たちがいろいろな意味で幅を利かせていて、エジプト人を支配していました。

ナポレオンはここに目をつけました。

フランス革命が”王族その他特権階級から民衆を解放する”という名目でしたので、「エジプトでも民衆が苦しんでいる! 俺たちが助けてあげるよ!」(超訳)という大義名分を掲げたのです。
本音は前述の通りですが、イメージ戦略というやつですね。バレバレだけど。

 

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真夏のエジプト マムルークたちとの大会戦でWIN! 

そしてご苦労なことに、1798年7月にわざわざ真夏のエジプトへやってきたのでした。なぜもっと攻めやすい時期に来なかった。

とはいえそこは”英雄”率いるフランス軍ですから、アレクサンドリアなどの都市を順調に落としていきます。後のロシア戦役の苦戦っぷりを考えるとホント雲泥の差というか何というか。

ピラミッドで有名なギーザ付近でも、マムルークたちと大会戦を行い勝利しています。
このときナポレオンは「諸君、四千年の歴史が君たちを見下ろしているぞ!」と言って士気を上げたとされていますが、初出はこのときの記録ではなくセントヘレナ島に流された後の回想録らしいので、多分脚色でしょうね。

余談ですけども、ナポレオンって結構言葉選びが綺麗というか文学的な才能も感じますよね。ジョゼフィーヌへのラブレターはpgrされてましたけど(関連記事:ナポレオンが惚れて愛して別れてやっぱり愛した女性とは【その日、歴史が動いた】)。

カエサルもそうですが、フランスに行った軍人は文学が得意になるんでしょうか。さすが芸術の国。

 

イギリス艦隊にボコられ壊滅 補給ができない\(^o^)/ 

閑話休題。
そんな感じでフランス軍は首都・カイロも占領し、エジプト上陸から三週間という驚異的なスピードでほぼ全土を征服したのですが、それだけでは終わりませんでした。

目の敵であるイギリス艦隊にフランス艦隊を壊滅させられてしまい、補給・連絡・退路を奪われてしまったのです。
また、マムルークたちもやられてそのまま黙っているわけはなく、再起のタイミングを狙っていました。

ナポレオンは当初の名目を信じ込ませるため、アラビア語で「俺らは味方だから、みんな協力してくれよな!」(超訳)というビラを撒いていましたが、当然のことながらやられたほうにそんなキレイゴトを信じる人はいません。

フランス軍がカイロに入ってわずか三ヵ月後、フランス兵が300人も殺されるという大暴動が起きてしまいます。しかもこれを鎮圧するためにエジプト人を2500人ブッコロしてしまい、モスクなど大切な建物も破壊してしまったので、民心はどんどんフランス軍から離れていきます。
自分達だってキリスト教バンザイなくせに、エジプト人にとってイスラム教がどれほど大事かってことがわからなかったんでしょうか。……いや、理解する気がなかったんでしょうね。

その他イスラム教的にも政治的にも反感を買うことばかりやってしまい、フランス軍は徐々に苦しい状況に陥っていきます。

その間に、ヨーロッパの情勢は動き始めていました。

 

アジアとヨーロッパの境目には何がおるんや!? 

ナポレオンの時代、イギリス・オーストリア・ロシアなどがフランスを囲い込むため何度か同盟を組んでいるのですが、そのメンツがフランスへ攻め込み始めたのです。
一方エジプトではペストが流行り始めた上、本国が危ういと聞いたナポレオンは中東方面の攻略を断念し、帰国を決意。傷病兵をほったらかしにして逃げたも同然だったので、現代では「味方を見殺しにして何が英雄だ!」という意見もあります。そりゃそうだ。

これまた余談ですが、アレクサンドロス大王も東方への遠征中に熱病で亡くなったといわれていて、「二人の英雄が病気によって東方への進路を阻まれた」と考えると奇妙な偶然ですね。ペストはモンゴル帝国がヨーロッパへ侵攻したときに持ち込まれたともいわれていますし。

単なる偶然というよりは風土の違いや抵抗の有無によるものなのでしょうけども、アジアとヨーロッパの境目にはそういう神様でもいるんでしょうか。ちょっとオカルトすぎるか。

そんなわけで、フランス軍は戦争には勝ったものの、ほとんど戦果のないままエジプトを去ることになってしまいました。なんか最近こんな話ばっかやな。

 

副作用でロゼッタ・ストーンや王家の谷を発見! 

しかし、人類としては大きな収穫を得ています。

それは何かといいますと、エジプト文明の再発見。
ナポレオンは遠征に際して科学者や建築家、数学者など調査団を連れて行っていて、彼らがロゼッタ・ストーンや王家の谷、カルナック神殿など多くの史料や遺跡を初めて学術的に記録しました。

photo by Francis Bedford

photo by Francis Bedford

何で戦争に非戦闘員の代表ご一行様を連れて行くのか不思議な気もしますが、「四千年の歴史が~」なんて台詞を思いつくくらいですから、多分ナポレオンはエジプトの文化や文明に対してある程度尊敬の念を持っていたのでしょう。実家はイタリア貴族ですから、元からそれなりの教養はあったでしょうし。

軍人としての才能は疑うべくもありませんが、もしかすると学問の道に進んでいたほうがナポレオン個人としては幸せになれたのかもしれませんねえ。

代わりにフランスという国がどうなってたかわかりませんが。

 

 

長月 七紀・記



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参考・画像引用:エジプト・シリア戦役/Wikipedia

 

 

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