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一般的には残念武将な小早川秀秋さん/絵・富永商太

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その日、歴史が動いた 豊臣家

小早川秀秋とは? 裏切り者の看板を背負わされ、20歳で死亡した豊臣秀吉の養子

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人生、自分の思い通りになることなんてほとんどないですよね。
むしろ何もかも上手くいかなくてイライラしたり、それ以上に悪いことが起きることのほうが多いのではないでしょうか。
普通の人でも一生幸せでいることは難しいのですから、時代の節目であったり高い身分に生まれた人の場合は計り知れません。
おそらく戦国一罵倒されているであろうあの人も、そうした事情の犠牲者でした。

優柔不断な小心者というイメージにぴったりな肖像画でカワイソース/写真 wikipediaより

優柔不断な小心者というイメージにぴったりな肖像画でカワイソース/写真 wikipediaより

慶長七年(1602年)の10月18日、関が原の裏切り者・小早川秀秋が亡くなりました。
天正十年(1582年)生まれなので、満20歳という若さです。どうでもいい話ですが、本能寺の変の年に生まれているという時点で既に不吉というか何というか。
裏切りだけがクローズアップされているため、彼の生まれ育ちについてご存知の方は余程の戦国ファンでしょうね。
ということで、本日は彼の生涯について見ていきたいと思います。

秀吉の妻ねねのおいっ子から秀吉の子へ

秀秋は秀吉の妻・ねねの甥っ子として生まれました。
が、当時は秀吉に子供がおらず、跡継ぎに困っていた時期だったので、三歳で秀吉の養子入りします。

一時期は秀吉自身の甥っ子・秀次と共に時期後継者と見られ、他の大名たちからもそれなりの扱いをされていました。
秀次は永禄十一年(1568年)生まれでだいぶ年が離れていますので、ライバルというよりは秀吉→秀次→秀秋の順で継承していくと考えられていたのでしょう。
秀次は子福者だったため、もし秀次が跡を継いでいた場合は彼の息子に系統が移ったかもしれませんが、まあそれは別の話ですね。

しかし、天正十六年(1593年)に秀頼が生まれると、秀秋も秀次も一気に扱いが変わってしまいます。
乳飲み子がすぐに跡を継げるわけでもないのに、ボケ始めた秀吉が「次は即秀頼に継がせるから、お前ら引っ込め!」的なことをしはじめたからです。

この時点で「秀頼が幼いうちは秀次に継がせて、20年位したら跡を譲るように。秀秋はその補佐な」ということにでもしておけば、豊臣家はもうちょっと続いていたでしょうにね。
自分が生きているうちに決めておかないと気が済まなかったのかもしれませんけども、養子まで疑うとか何のために縁組したんだよって感じですし。
こうして二人の養子に対するイジメが始まるわけですが、秀次のように即命を取られなかっただけ秀秋はまだマシだったかもしれません。

「この顔がなぁ」絵・富永商太

「この顔がなぁ」絵・富永商太

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毛利家におしこもうとする

この辺で「毛利輝元殿にはお子さんがいないって聞いたんだけど、秀秋様を毛利家でもらってくれんかね」という話が出てきたのです。申し入れたのは黒田官兵衛だったといわれています。

しかし、毛利家が実質的に豊臣家のものになることに対し「冗談じゃねーぞ!」と考えた小早川隆景(元就の三男)が「いやーすみませんね本家の跡継ぎはこの前決まったばかりなんですよHAHAHAHAHA! 代わりに私の養子として来ていただけませんかね?」(※イメージです)とウルトラC級の言い訳を使って神回避を見せてくれたため、毛利家を継ぐことにはなりませんでした。
こうして秀秋は小早川家に入り、物理的にも精神的にも豊臣家から離れることになります。
その後朝鮮の役に従軍していたらしきことがわかっていますが、活躍したのかしてないのか記録がはっきりしていません。

ただ、何かあったのは確かなようで、この間に改名しています。この記事では「秀秋」で統一しましたが、それまでは「秀俊」という名乗りだったのです。

誰かから字をもらったわけでもないので、験かつぎのためではないかと思われますが、残念なことに姓名判断だとどっちの名前でもあまり良くないみたいですね。(´・ω・`)

現代とは占いや縁起に対する考え方が違ったのかもしれませんけども、誰かアドバイスしなかったんでしょうか。

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秀吉に裏切られて、むしろ家康こそ恩人

帰国後はそれまでの筑前(現・福岡県)から越前(現・福井県)へ転封を命じられます。京・大阪に近くなったものの、石高で見ると約半分という大減封でもありました。

そのため家臣の召し放ち(クビ)をしなくてはならず、幼い頃から支えてくれていた家老も側を離れてしまい、頼りにできる人がほとんどいなくなってしまいます。

秀吉が亡くなった後に筑前に戻っているので、石高とメンツだけは元通りになったのですけども、そのために動いたのが例の狸だったため、裏切りに繋がっていくのでした。

関が原後は裏切りの功績として宇喜多秀家の旧領・岡山55万石をもらいましたが、秀秋自身がわずか二年で亡くなった上に子供がいなかったので、小早川家は無嗣断絶&改易という最悪の末路をたどります。隆景の先読みぶりぱねえ。

関ヶ原でおなじみの大谷さん

関ヶ原でおなじみの大谷さん

死因についてはよくわかっておらず、一般的には「秀秋の裏切りのせいで自害するハメになった大谷吉継に呪われた」からといわれていますね。岡山に移って以降、家臣の出奔や家臣同士の刃傷沙汰などよろしくないことが立て続けに起きた上で当主が亡くなったのですから、いかにもという話ではあります。

現実的に考えれば、「自らの行動を悔いてノイローゼ状態になり、自殺した」というのが妥当でしょうか。
こうしてみると、「根っからの大悪人」というよりは「周囲に振り回され続けた哀れな人」というほうがしっくりくるような気がしてきますね。
決して不真面目とかバカ殿というわけではなかったらしく、地元では農民保護のため内政を重んじたりと、そこそこ良い領主だったようなので余計残念です。

もし秀吉が秀秋を秀頼の後見人にしていたら?
秀秋が毛利本家を継いでいたら?
最初から東軍につくことを明らかにしていたら?
「歴史にIFは厳禁である」というのがお馴染みですけども、この振り回されっぷりを見るとどうしてもそう考えたくなってしまいます。

長月 七紀・記

秀秋君の裏切りは裏切りじゃなくてむしろ必然という過去エントリーもご一読ください。「孝行息子じゃないか」と思うかも
⇨ 「関ヶ原の勝敗を決めた女たちのキャットファイトとは!北政所(ねね)VS淀殿」

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/10/post-07e8.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/小早川秀秋




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