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その日、歴史が動いた 源平

八幡太郎源義家さん 武士で初めて昇殿を許される!

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日本が歩んできた歴史のうち、今のところ確たる記録が残っているうちの半分近くは武家政権の時代ですよね。諸外国に「ニッポンといえばフジヤマ、ゲイシャ、サムラーイ!」なんてイメージを持たれていますし。
しかし、その割に武士の始まりについてはあまり知られていませんよね。
学校の授業だけだと、「なんかいつの間にか源氏と平家が争ってて鎌倉幕府ができてました」としか覚えていないという方が多いのではないでしょうか。試しに手元の高校の教科書をめくってみたんですが、×印がついていたのでものの見事にすっとばされていたようです。
というわけで、本日は武士の成り立ちについてのお話を致しましょう。

 

武士はヒャッハーした庶民から這い出たのではなく荘園の警護の領主たち

大分イメージが変わりますが、武士とは武装集団のことですよね。
つまり、当時の社会情勢として「何かから何かを守るために武力を身につける必要があった」ということになります。
この場合守る対象は荘園でした。荘園とは現代で言う私有地のことで、貴族や寺社などが持っていました。中には田畑があり、そこから米などが運ばれ、持ち主の収入になっていたのです。

しかし荘園の大部分は京都や大きな町から離れていたため、そのうち「この道を通る奴らを襲えば楽にメシが食えるぜゲッヘッヘ」(※イメージです)という輩が現れ始めます。平たく言うと野盗です。

ですが当時の貴族たちは武装どころかろくすっぽ運動すらしない人たちですから、自分の領地であってもわざわざ出かけていって守るなんてことはしません。

ではどうやって財産や収入を守っていたかというと、荘園の近くの領主たちに軍事的な役割を持たせたのです。

中には由緒正しい貴族の家から没落してしまった人々もいて、もう一度名を上げようと頑張りました。源氏や平家もこうやって大きな勢力を持っていきます。これが武士の始まりです。

やがて反乱の鎮圧などで功績を挙げる家も出始め、朝廷のほうでも「あいつらよく働いたから、それなりの扱いをしてやろう」ということになりました。

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源氏の大将、皇居の建物にあがる=貴族の仲間入り

承徳二年(1098年)の10月23日、源義家が武士として初めて昇殿を許されたのは、その「それなり」を象徴する出来事です。

昇殿とは文字通り殿=皇居の建物に上がる許可のこと。厳密に言えば、天皇が昼間仕事をしていた清涼殿という建物の中にある”殿上の間”に入ってもいいよ、というものでした。
それまで一定以上の位に就いた貴族しか立ち入りを許されなかったのが、これで武士も皇居内の建物に足を踏み入れることができるようになったのです。
最初に義家へ許可が出たのは、彼が”後三年合戦”という、東北の武士の内紛を収めたからといわれています。その前にも前九年合戦とかいろいろやってますが、ここでは省略しますね。だって長いんだもんテヘペロ。

これは秋田県を地盤とする清原氏という家の内輪もめから広がったものだったのですけども、朝廷から「やめんかバカタレ!」といわれても全く収束の兆しがなく、それどころか税の納入もサボリ出したため、放っておくわけにはいかなくなりました。

義家はこのゴタゴタを腕付くで解決しましたが、が、全部が全部朝廷の許可を得てやったことではなく、「私戦」と判断されて、一時は逆に権利も領地も剥奪される処分を受けます。

清原氏が持っていた東北の金やら馬やらの利権(理化学研究所ではない)を義家が奪って自分のものにしようとしたのが朝廷にばれてしまったからとも言われています。ちなみに、清原氏の養子で、後三年合戦を義家とともに戦ったのが、黄金の平泉を開く藤原清衡です。まあ清原の「金銀財宝」は清衡にとられちゃって義家は処分だけ受けるという散々な目にあったのでした。

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院政の力でタブーをやぶる

が、十年ほど経ったある日、突然当時一番の権力者・白河法皇から「お前のこと許すし、今まで苦労させたお詫びに昇殿許しちゃうよ!」(超訳)という手紙が届きます。

それまで三位以上という高級貴族(武士はたいてい五位どまり)しか許されなかった特権ですから、当然義家も周りも貴族たちも大混乱。代ブーイングが巻き起こりましたが、白河法皇は屁の河童でした。

白河法皇は「私の思い通りにならないのは、賀茂川の流れ・サイコロの目・比叡山の坊主くらいのものだよwww」(超訳)というくらい絶大な権力を持っていた人ですので、貴族たちの囀りなんぞ蚊の羽音ほどにも気にならなかったことでしょう。

とはいえ一貫して源氏びいきだったかというとそうでもなく、権力を持ちすぎるのは危険だということで義家と弟・義親を仲違いさせたりもしています。真っ黒やな。

義家の次には平忠盛(清盛のトーチャン)も昇殿を認め、平家と源氏を対立させることで皇室や貴族の権力を保とうとしていました。

こうして武士は名実共に歴史の表舞台に出てきたのです。
白河法皇の目論みは後々外れ、やがて日本は600年ほど武家中心の社会になっていくわけですが、まさかこのときは露ほどにも思っていなかったでしょうねえ。

長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/軍事貴族
http://ja.wikipedia.org/wiki/源義家




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