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その日、歴史が動いた 江戸時代

これって江戸時代のアベノミクス? 徳川宗春、やりたい放題で名古屋を空前の好景気にして散る

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昨日は歴史の凄惨さについてお話しましたが、本日は歴史は繰り返すというか血は争えないというか、カエルの子はカエルというお話です。血生臭くはないのでご安心ください。

元禄九年(1696年)10月26日、御三家の一つ・尾張家に徳川宗春が誕生しました。

お殿様としては七代目ですが、父・綱誠(つななり、もしくは、つなのぶ)からみると二十 男(十九男説もあり)という箸にも棒にもかからなかったであろう人です。さぞダメ親父かと思えば、トーチャンはトーチャンで柳生新陰流の七世(柳生新陰流の”流派”はその前後に柳生家と徳川家でいったりきたり)だったりするのであなどれません。いろんな意味で強い人だったってことですかね。

宗春ロマン隊

名古屋で愛されている殿様(宗春ロマン隊より

 

20番目の息子なのに殿様にのぼりつめる

尾張家は初代・義直が御三家の中で最年長だったことから、「御三家筆頭」としての立場や意識を持っていましたが、結局一人も将軍を出すことなく明治時代になりました。
「情けねーなpgr」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、実はそうなっても仕方のないお家事情があったのです。

その理由の一つがタイミングの悪さ。江戸幕府で将軍の後継者選びに困るようになったのは五代・綱吉時代あたりからですが、同時期に尾張家では藩主の急死が相次いでいたのです。これではとても本家に入るどころではありませんよね。

といっても、病死や事故死だけではなく「コレ明らかに暗殺じゃね?」な死に方をした人も多いのですが。あれ結局血生臭いぞオカシイナー。
しかもよくある兄弟での争いではなく、母親が関わってたっぽいとか完全に経緯が不明とかいう人がザラにいるのがもうね。
まあそれはさておき、宗春はそうしたきなくさい尾張家の中で、珍しく天寿を全うできた人物です。
しかも長兄・四代藩主の吉通(よしみち)から可愛がられていたそうで、お兄さんのほうが一緒に夕食を取りたがるほどだったとか。大名家には珍しい(二回目)心温まる話ですね。

上記の通り二十男という生まれ順だったのですが、夭折した兄弟も多かったため、宗春は
割と普通に”尾張家の若様”として育ちます。

途中で何回か養子の縁談が出たり、他の藩を継いだりもしていますが、四代~六代めの尾張藩主が皆若くして亡くなってしまったため、実家に戻ってくることになりました。
ちなみにこの間、疱瘡にかかったりもしています。しかし見事回復して何事もなかったように仕事をしていました。

 

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ドケチの8代将軍吉宗とことごとく反対の政策。本当の暴れん坊将軍はこっちかも

どんだけツイてんねんと言いたくなりますが、彼の強運はまだまだというか一生というか、現代まで続きます。その話はおいおい。
さて、尾張家を継いだ宗春は、早速内政に取り掛かりました。それも、当時の情勢からは考えられないような方向へ。
時の将軍は八代・徳川吉宗。”中興の祖””米将軍””口癖は質素倹約”の平たく言えばドケチです。宗春は尾張藩主になる前、吉宗にいろいろ任されているので、恩もあり性格や政策も理解していたことでしょう。

しかし、藩主についてからは真逆の方向にブッちぎっていきます。吉宗のポリシーにことごとく反するようなことばかり言い出したのです。

例えば、幕府では「今はお金がないんだから、祭りや芝居などの娯楽は控えること!」としていたのに対し、宗春以下尾張藩では「やれやれもっとやれ!俺も派手なの好きだし、皆楽しくないとやる気なくなるだろ!」といった感じでした。
吉宗以下幕閣がこめかみに青筋を浮かべている様が目に見えるようで笑え……苦労が偲ばれます。
初代・義直と家光も対立してましたが、尾張家には将軍と険悪にならなきゃいけないとかいう伝統でもあるんですかね。
とはいえ宗春はただの馬鹿殿ではなく、儀式や寺社への参拝のときにはきちんとした正装をしていました。その辺は流石由緒正しいお家の人ですね。
その代わり(?)自領内では歌舞伎や能の役者姿(舞台衣装)で出かけたり、どこから見つけてきたのか白い牛に乗ってみせたりとやりたい放題だったとか。

民衆からも「今度の殿様は派手で面白い方だ」ということで人気があったそうです。領内に芝居小屋や遊郭など、娯楽施設を作る許可を出したのも宗春でしたので、そっちの世界や商人の間でも「ありがたいお方」として受け入れられていきます。
結果、尾張藩は「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われるほど経済を回復させました。

名古屋のサブカルの聖地大須があるのはこの人のおかげかも(大須観音=Wikipediaより)

 

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規制緩和、ヘリコプターマネーが景気のきも、でもやりすぎ

さて、宗春が何でこんないかにも(物理的に)首が飛びそうな行動に出たのかというと、ただの反発ではなくきちんとした信念がありました。
いくつか書き出されているのですが、一貫しているのは二つ。
「行き過ぎた倹約はかえって民を苦しめることになる」=ケチケチしすぎないで、使いたいときはパーッと金を使え!
「規制を増やしても違反者を増やすのみ」=だから取り締まる手間をかけるより、楽しく金を使うようにすればいいじゃん?

こんな感じでした。どっちも間違ってはいませんね。シンプルですが一理ありますし、現代にも通じる考え方ではないでしょうか。
余裕のある人が積極的に使ってくれないと、お金は天下を回っていきませんからね。

ちなみに自領内ではとどまらず、参勤交代で江戸に行った際には「前の屋敷を建て直したついでに、ウチのお宝を江戸のみんなに見てもらおう!」ということで藩邸を開放するという前代未聞の行動に出ています。

現代ならそう珍しい話ではありませんが、江戸では倹約令の真っ最中。当然吉宗からお叱りの使者が来た……といわれています。そりゃそうだ。

ただし宗春は宗春できちんとした考えを持っていたので、このお叱りにも真っ向から反論しました。
「国元と江戸で行動を変えるなんてできないし、民衆には迷惑かけてないですよ(っていうかウチのほうが江戸より賑わってるし)」
「藩邸に市民を入れたのとお宝を見せたのが悪いって言われても、やっちゃダメなんて言われてませんが?」
「私も無駄遣いなんてしてないですよ。ただ、吉宗様は倹約のやり方をご存じないので、私の行動がおかしく見えるだけなんじゃないですかね^^」

超訳するとこんな感じです。この返答を持って帰らないといけなかった使者がいっそ哀れに思えてくるほどの回答ですね。サムライはつらいよ。

そんなわけで本当にやりたい放題だった宗春ですが、後半生はまた別の理由で苦しい立場に追い込まれていきました。
どちらかというと宗春自身の責任というより、幕府が朝廷をないがしろにしすぎて対立していたからなのですが。幕末と似たような構図ですね。

そして尾張藩は数々の公家と縁戚関係にあったので、板ばさみ状態になってしまったのです。朝廷は幕府に対抗するため「宗春おk」、幕府はそれが気に入らないので「宗春とか(#^ω^)」という感じでした。全くもって嬉しくない三角関係の出来上がりです。

 

とうとう下った隠居・蟄居命令

そして幕閣の一人・松平乗邑(のりさと)の画策によって、宗春は隠居及び謹慎することになってしまいます。両親の墓参りさえ許されない、徹底した外出禁止が一生続きました。

とはいえきちんとしたお屋敷をもらえましたし、外に出る以外は何をしても自由ということで、絵や焼き物を楽しむなど割と好きにやっていたようです。転んでもタダでは起きないというかなんというか。

政策では対立したものの、吉宗はやはり宗春のことを気に入っていたようで、謹慎後も「何か足りないものはあるか」「外に出られなくて気が沈んでいるのではないか」などなど、気配りをしていたそうです。公私混同がなくていいですね。
また、尾張からも宗春の恩赦を願う届出も何回かされており、地元での根強い信頼がうかがえます。
結局それは叶いませんでしたが、今ではこうした政策などが再び知られるようになり、名古屋では「徳川宗春を大河ドラマに!」という声も上がっているとか。
今のところ江戸中期のドラマは民放のほうが得意な気がしますので、ここはいっちょNHKの底力を見せてくれませんかねえ。
最初から合戦シーンがないのでがっかりすることも少なそうですし。

長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川宗春

 




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