織田信勝(織田信行)

信勝(信行)の居城だった末森城址/wikipediaより引用

織田家

兄の信長に誅殺された織田信勝(織田信行)最後は勝家に見限られ

信長の前半生において、大きな壁となったのは「身内」でした。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれておりますように、尾張平定までに何度も裏切られ、一国を統一するのに約14年もの時間がかかっています。

とりわけインパクトの大きかったのが実弟・織田信勝(織田信行)でしょう。

父も母も同じ弟を謀殺する――この一件が信長のイメージを悪化させる一因になっているとも思われますが、果たしていかなる流れでそうなったのか?

本稿では、永禄元年(1558年)11月2日に殺害された織田信勝の生涯を追ってみたいと思います。

なお、同じ「おだのぶかつ」でも信長の次男は「織田信雄」であり、よろしければ以下の記事をご覧ください。

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歴史に登場するのは14才のころから

織田信勝は信長のすぐ下の弟で、前述の通り母も同じ土田御前(どたごぜん)です。

父親は織田信秀

生年はまだ確定しておらず、天文五年(1536年)説があります。

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信長が天文三年(1534年)生まれで、後述する別の弟・織田秀孝が1541年頃の生まれなので、信勝は1535~1540年あたりで間違いはないでしょう。

さらには織田信勝の息子・津田信澄については弘治元年(1555年)生まれ説があり、信勝が15~20才ぐらいの頃に生まれた計算になるため、この点からも問題ないと思われます。

そんな織田信勝ですので、幼少期についてはあまり記録が残っていません。

歴史に登場するのは、父・織田信秀が健康を損なった後、天文十八年(1549年)あたりからのとなります。当人が14才前後のときですね。

当時は、信秀が居城としていた末森城に住んでおりました(TOP画像参照)。

天文二十年(1551年)9月20日には、織田信勝の名で熱田神宮寺座主に対して判物(武家が発行する花押付きの文書)を発給。

中身は、信秀や信長の出したものをほぼ踏襲する内容だったため、これが初めての公的な仕事だった可能性もあります。

文書に使われた信勝の花押(図案化された個々人特有のサイン)は、信秀と類似していたとか。

おそらく、このときまで、花押を使ったこともあまりなかったのでしょう。

天文5年(1536年)生まれとすれば元服して1~2年経つかどうかという頃合いですし、初々しさがうかがえますね。

この後しばらく、信勝は信秀の仕事を引き継ぐ形で、尾張の統治に関わっていくことになります。

織田信勝(織田信行)

 


嫡男は信長としたまま信秀が死亡

当時の信長は那古野城を譲り受けて半分独立しておりました。

織田信勝は信秀と同じ末森城に住み、仕事を引き継いでおります。

※左から清洲城(紫色)・那古屋城(黄色)・末森城(赤色)

となると、

「当主である信秀様に可愛がられているのは信勝様だ!」

「だから次の当主もきっと信勝様になる!」

「日頃の行いも、”大うつけ”とは天と地ほどの差がある!」

と、配下の者たちが思うのは自然の流れと言えなくもありません。

本人もそれに流されて、だんだん信長と争う気分になっていってしまったのでしょうか。元から仲が悪いのなら、そういった類の逸話も残ってるはずなのに、それもない。

信秀は、嫡男を信長としながらも、信勝の扱いをどうするのか?ということをハッキリ示さないまま亡くなります。

父の葬儀に、信長が荒くれ者のような格好でやってきて、父の位牌に抹香を投げつけるという乱暴な態度を取った……というのは、信長公記の最も有名なエピソードの一つ。

焼香投げつけ、政秀自害~戦国初心者にも超わかる信長公記9話

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これに対し、織田信勝はきちんと衣服を正して行儀よく振る舞ったため、二人の評判の格差はより広がりました。

 


信勝には勝家 信長には秀貞

父の死後、末森城はそのまま織田信勝が住み続け、柴田勝家らの付家老も引き続き彼に仕えます。

家臣の格については、信長にも筆頭家老の林秀貞などがついていたので、互角と見るべきでしょうか。

ただ、この時点での秀貞は信勝派だったこともあり、心情的には信長が不利でした。

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記録によれば天文二十二年(1553年)7月ごろまでは、信長と信勝の間に表立って大きな対立はなかったようです。

しかし、同年10月から、不穏な空気が漂い始めます……。

熱田の豪商に対し、信勝と信長が別々に判物を発給し始めて、いわば【経済戦争】が始まったのです。

家格や地勢において弱小の織田弾正忠家で、当時、唯一チカラの源となりえたのが「お金」。

それを巡る争いとなれば、本格的な対立は避けられません。

信長が旗印にも使った「永楽通宝」/photo by Galopin wikipediaより引用

ではなぜそんな状態になったのか?

これが、直接の原因も定かではありません。

天文二十二年といえば、閏1月に信長の「じいや」こと二番家老の平手政秀が自害したり、同年4月に信長と斎藤道三が初めて会見したり、戦以外でもそこそこ大きな動きがあった年です。

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特に「道三が信長を気に入った」ことは、織田信勝にとって大きな脅威に見えたでしょう。

こうした複合的な要素が、彼に対するプレッシャーとなり、背中を押したのか。

加えて、二人の叔父(信秀の弟)である織田信光は、天文二十三年(1554年)11月に不慮の死を遂げています。

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弾正忠家の家督争いは、かくして信長vs信勝に絞り込まれるのです。

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