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その日、歴史が動いた 欧州

未踏の道を切り開いたリケ女の星☆キュリー夫人が誕生

更新日:

 

1867年(明治元年)の11月7日、後に女性初のノーベル賞受賞者となるマリ・キュリーが誕生しました。フランス語だと長音がついて「マリー」になります。

1903年に最初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した頃のキュリー夫人/wikipediaより引用

1903年に最初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した頃のキュリー夫人/wikipediaより引用

これは結婚後の名前を略したものなのですが、多分「キュリー夫人」の方が有名ですし、わかりやすさ優先でいきますね。生まれがポーランド・ワルシャワでポーランド語の名前なので、日本人にとってはちょっと読みづらくなってしまいますし。
ちなみに最初の名前は「マリア・サロメ・スクウォドフスカ(スクロドフスカ)」だそうです。うん、やっぱり舌噛みそう。

まぁ、お名前の話はそこまでにしまして、時は19世紀。まだ女性の人権どころか学校教育でさえ浸透していたとは言いがたい時代です。
しかし、マリの家はお父さんもお母さんも教育者だったので、幼い頃から本に親しみ、また記憶力も良い優れた頭脳の持ち主であることがわかっていました。

ですがここで、ポーランドという国が度々襲われてきた苦難が襲い掛かります。当コーナーではまだあまり触れていませんが、ポーランドはロシア帝国とヨーロッパ諸国の間に位置するため、度々どちらかからの侵攻を受けていたのです。

マリの時代はロシアに事実上併合されていて、知識層への圧力が加わり、マリの両親は職を失ってしまいました。それまで住んでいた家も追い出され、一家は非常に苦しい生活を強いられます。

 

母や姉を亡くし一時は深刻なうつ病に…

東欧とはいえ北欧に近く厳しい寒さの土地ですから、一度病気にかかれば回復は絶望的。マリはお姉さんやお母さんを亡くし、一時は深刻なうつ病になっていたようです。頭がいい人ほどあれこれ考えてしまうことが多いですからね……。
まして、母親を亡くしたときマリは14歳。多感な時期に肉親を続けて失っては、精神的な辛さは筆舌に尽くしがたいものだったでしょう。

しかし何とか持ち直し、再び学校に通えるようになりました。本来の頭脳の冴えを取り戻したマリは、ギムナジウムという日本の中学・高校にあたる学校を優秀な成績で卒業します。

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16歳の頃のキュリー夫人/wikipediaより引用

が、当時女性には大学以降の高等教育機関へ進むことが非常に難しかったため、一度田舎で休養した後、住み込みの家庭教師として働き始めました。この間辛い失恋もしましたが、「さまよえる大学」という今で言う移動教室のような講義をしている団体に出会い、そこで勉強を続けることができたのは不幸中の幸いだったでしょう。

このあたりで科学の道に入ったようですので、この移動教室こそが彼女の運命を変えたといってもいいかもしれません。

そして24歳の頃フランスに移住し、当時女性の入学を認めていた数少ない大学のひとつ、ソルボンヌ大学(パリ大学を構成する大学のひとつ。現在はパリ第6大学)に入学します。
お姉さんの一人が結婚してパリに住んでいたため、そこへ世話になり、姉夫婦を通じて人脈を広げていけたようです。また、美女ぶりで学内でも評判だったとか。

 

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物理学の学士号を取得 奨学金で研究を続けた

しかしいつまでも姉夫婦に甘えていられないと考えた彼女は、別に部屋を借りて自ら苦学生の道を選びました。部屋とも言いがたい屋根裏の一室で、昼は学生として学び、学校が終わってから家庭教師のバイトをし、家に帰ってからは食事もロクにできないような状態になっても一人で生活していたそうです。

当然ながら暖房もなく、冷え込む日には手持ちの衣類を全て着込んでいたとか。お姉さんの旦那さんがお医者さんだったので、そちらにお世話になることもあったほどです。
言い方が悪いですけども、顔で異性をたらしこんで貢がせることもできたでしょうに、そうしなかったあたりに彼女の高潔さが伺えますね。

そして26歳になる頃、ここまでするマリに神様がやっと味方してくれるようになります。物理学の学士号を取ることができたのです。また、マリと同じくポーランド出身の学生たちが奨学金の手筈を整えてくれ、研究を続けることができるようになりました。

このあたりから外部機関の研究を受託し、わずかではありましたがお金を稼げるようになり、少しずつ生活は改善していきました。奨学金も無事返済できたそうです。よかったよかった。

 

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旦那さんも天才科学者だった 

ですが全て順風満帆に行ったわけではありません。
請け負った研究にはそこそこの広さの実験室がなければ進めることが難しいものがあり、場所を用意することができなかったのです。

その頃かつての知人が尋ねてきたところへ、世間話としてその話題をしてみると、たまたまその女性の旦那さんが物理学の教授だったというこれまたラッキーなことがわかりました。
さらに、「それなら、部屋を貸してくれそうな人を紹介してあげるよ」と言ってくれたのです。持つべきものは知り合いですねえ。

こうして出会ったのが、後に結婚することになるピエール・キュリーです。

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旦那さんと娘さんに囲まれて/wikipediaより引用

 

日本ではキュリー夫人としてマリだけが有名ですが、ピエールも天才科学者として既に相当知られた存在でした。彼の名を取った「キュリーの法則」というものもあるくらいです。
ピエールは当時女性との交際や出世といった俗念がほとんどなかったようなのですが、マリと会ったときにはビビビときた(古い)ようで、お互い惹かれあっていきます。
また、どうでもいいですがこの人もかなりのイケメンです。マリとは美男美女としてさぞ目立ったでしょうねえ。ついでにいうと二人の娘も超美人です。一家揃って顔も頭もいいとか羨ましい通り越してひれ伏すレベルですわ。

学問でもプライベートでも極めて親密に付き合った二人でしたが、マリは「いつか故郷に帰りたい」と思っていたので、結婚に対しては慎重に慎重を重ねます。
しかしピエールの熱意も相当のもので、「結婚してくれるのなら、一緒にポーランドに行くよ!!」(超訳)とまで言って誠意を示しました。

そして出会った翌年の夏、宣誓や指輪もなくドレスのみという簡素な結婚式が行われました。しかし、ポーランドからマリの家族が駆けつけ、小ぢんまりした温かい式だったようです。
新婚旅行も自転車でフランスの田舎を旅するという質素振りでした。多分二人とも「形式的なことに使うお金があるなら、研究に使いたい」と思っていたのでしょうね。

 

怪光線扱いされていた放射線に興味をもち…

こうして良き研究仲間、良き夫を同時に得たマリは、ここからより一層活躍していきます。

ちなみにマリは料理がからっきしダメだったそうなのですが、結婚後は見る見る上達したとか。大昔読んだ彼女の伝記で「スープの作り方さえわからない」とまで書かれていた気がするので、愛の力は偉大ということでしょうか。

でもこの後の二人を考えるとうかつに爆発しろとか言えない。

そして二人は、当時アンリ・ベクレルという別の学者が発見していた謎の光線に興味を持つようになります。先に正解を言ってしまうと、これが放射線でした。しかし、アンリは途中でこの光の調査をやめてしまったため、当時は怪光線扱いされていたのです。
ウランを始めとしたさまざまな物質で調べてみた結果、同様の怪光線……もとい、同等の光を観察することができました。そしてこれを「放射性元素」と名付け、世間への発表を急ぎます。
現在の特許などもそうですが、同じようなものを発見したり発明した人が複数いた場合、先に届け出たほうが権利者になるからです。

そのため大急ぎでできるだけ簡潔にまとめた論文を書いたのですが、既にドイツの学者が同様の発見及び発表をしており、夫妻のものとは認められませんでした。残念(´・ω・`)

 

濃縮させた放射性元素の器から、淡い光が

その後二人がノーベル賞を受けることができたのは、同じ放射能関連ではありましたが、別の物質を発見したことがきっかけです。

1898年(明治三十一年)の7月にポロニウム、同年12月にはラジウムという新しい元素の存在を発表したのでした。

しかし、新しいものにはいつでも鼻笑いがまとわりつきます。このときも例外ではなく、他の科学者たちが「本当にその元素が新しいものだというなら、原子量その他諸々がはっきりしないといけないんじゃないの^^」(※イメージです)という態度を取ったのです。
もちろん、そんなくだらない嫌がらせで引っ込む夫妻ではありません。直ちにイチャモンをはねつけるため、更なる研究の準備を始めました。

一時は家計の危機にも陥るほどだったようですが、後々娘たちが立派に育っていることを考えると、家族間の衝突は少なかったのでしょうね。夫妻の肉親が亡くなったり、資金調達のため仕事を増やさなければならず、思い通りに実験が進まなかったりと紆余曲折はありましたが、ある日ついにその努力が実ります。

濃縮させた放射性元素の器から、淡い光が生まれたのです。マリいわく「妖精のような光」だったそうですから、ただ美しいばかりではない妖しさもあったのでしょうね。
放射線の功罪を考えれば、彼女の表現は実に的確といえます。

 

「ピエールと同じように轢かれて死んでしまいたい」

キュリー夫妻は放射性物質の精製法を独占せず公開したため、少しずつ多方面で応用されるようになります。

代表的なものは、皮膚疾患や悪性腫瘍(がん)になってしまった細胞を墓石、正常な細胞の再生を促すという”キュリー療法”です。

こうして学界だけでなく世間に広く注目されるようになりましたが、それは夫妻にとっては不本意極まりないものでした。学者さんの本分は学問と実験ですから、そりゃそうですよね。
過熱したマスコミが自宅や研究所にところ構わず押し寄せるようになり、辟易した一家は少しずつ身を隠すような暮らしを選んでいきました。
マスコミって100年前から変わってないんですね。ちったあ進歩せえよ。
そうしてやっと落ち着いた頃、一家を悲劇が襲います。ピエールが馬車に轢かれて突然亡くなってしまったのです。

ようやく貧困からも喧騒からも脱し、長女も次女も健やかに育っていたところへのこの悲報は、マリを大いに沈めました。この頃の日記には、「ピエールと同じように轢かれて死んでしまいたい」といったようなことが書かれていたそうです。

二人が天才同士としてお互いに認め合い、男女としても理解しあえた類稀な存在だったことが痛いほど伝わってきます。

 

女性初のノーベル賞受賞者であり大学教授でもあった

それはピエールが教職を務めていたソルボンヌ大学でも同じでした。彼女を励ますためか、それとも大学や学界の利益のためかは定かではありませんが、ピエールの仕事や学内の実験室を使う許可など、夫の持っていた権利を全てマリが引き継がないか?という連絡をしたのです。

ともすれば「身代わりに働け」とも受け取れるこの待遇を、マリは一度保留しました。
しかし、最終的に彼女はこれを受け入れます。自分の研究を続けることと、夫の遺志を継ぐことは同じように重大な価値があると考えたのでしょう。

こうして、ソルボンヌ大学、そしてパリで初めての女性教授が教壇に立つことになりました。
そう、マリは初の女性ノーベル賞受賞者であると同時に、初の女性教授でもあったのです。

時期的に夏休みの直前だったため、マリはすぐさま講義を始めるのではなく、夏いっぱい時間を使って準備を整えます。

そして休み明けの11月、好奇や期待の視線を浴びながら彼女が最初に言ったのは、亡き夫が生徒に対し最後に言った言葉でした。まどろっこしい御託を並べず、行動で夫の後継であるということを示したのです。
「沈黙は金、雄弁は銀」と言いますからね。喋ってるけど。

その後彼女はさまざまな困難と闘いながら二度めのノーベル賞を受賞しますが、大分長くなってきましたので今回はこの辺で。

 

 

長月 七紀・記

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参考:マリー・キュリー/wikipedia

 

 




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