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後水尾天皇像(Wikipediaより)

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その日、歴史が動いた 江戸時代

徳川将軍家から圧迫を受け続けた後水尾天皇 最後は春日局にキレて譲位する!?

更新日:

江戸時代の寛永六年(1629年)の11月8日、後水尾天皇が譲位しました。

この方は今上陛下まで続く代々の天皇の中でも、政治に積極的な方。
そんな方がどうして自ら位を下りることになったのかというと、どちらかといえばメガンテ的な意味があったのでした。
たぬ……家康が幕府を作ったとき、何よりも手を焼いたのは豊臣家関連ですが、天皇家や朝廷についても同様です。とはいえ民衆の反感を招いてしまうといけないので、家康は一計を案じます。
まずはお約束の「孫の嫁入り作戦」を計画しました。
このとき選ばれたのは秀忠の末娘・和子。後に東福門院と呼ばれる女性です。

東福門院和子(まさこ)様(Wikipediaより)

東福門院和子(まさこ)様(Wikipediaより)

しかし、まだ豊臣家との一件が片付いていない時期だったため、大坂の役が終わるまでは延び延びに。この時点で、後水尾天皇が幕府に対して少しずつ好感度を下げていったことは想像に難くありません。
しかも天皇がお気に入りの侍女に手をつけたら「ウチの娘が輿入れするって決まってるのに、他の女に手をつけるとかありえないでしょ!!!」(超訳)とまで言われています。家康も秀忠も似たようなことやってるくせによく言うわー。
幕府に監視されているかのように感じ始めた後水尾天皇は、この時点で一度譲位を考えたほどでした。

平行して、狸は「政治とか俗っぽいことはこちらで引き受けますので、尊い方々は学問と文化に専念なさってくださいね^^」というもっともらしいお願いという名の脅迫もしています。
これを明文化したのが”禁中並公家諸法度”でした。教科書で覚えさせられるアレです。

絵・富永商太

絵・富永商太

世襲にまでチャチャを入れられ切れ出す朝廷

一応建前としては間違っていませんし、幕府が朝廷から権力の委譲を受けているということは否定していないので、このときは公家の人々も「ぐぬぬ」とは思っても表立って反対することはしませんでした。
多分日記に「狸ムカつく」(※超訳イメージ)くらいのことを書いた人はいたでしょうけども。
そんな中でも、学問については自由が利いたので、朝廷では天皇を始め勉学や法事に励んでいました。それもマズくなったのが、紫衣事件と呼ばれる寛永四年(1627年)に起きた騒動です。
この”紫衣”とは、仏教で一番エライと認められたお坊さんに対して与えられるもの。聖徳太子が冠位十二階での一番高い身分にも与えたように、紫そのものが高貴な色として扱われていました。

が、そのイメージとは裏腹に、本当に徳のある人かどうかではなく、お寺の格や年齢など、属っぽいことで紫衣が与えられるようになってしまっていたのです。しかもいつの間にか一度に十人以上も「紫衣おk」の許可を出すようになっていたりと、だんだんありがたみが薄れてしまっていました。
幕府はこれに対し、禁中並公家諸法度の中で「それちょっとユル過ぎでしょ。ちゃんと人物を吟味してから紫衣をあげるようにしてくださいよ!」と定めます。あれマトモだぞ。

しかし、朝廷からすればポっと出の新しい政権に、先祖代々の慣習を否定されたようなものですから当然気に入りません。それは後水尾天皇とて同じことでした。

が、幕府は「決まりは決まりだって言ってんだろ!」とこの年に紫衣を受けた僧から、強引に紫衣を取り上げてまわります。あまつさえ、彼らを流罪にさえしました。

ここで離島でなく、陸続きの出羽(だいたい山形県)や陸奥(だいたい宮城県)に流したあたりが実に計画的というか何というか、いやらしいですけども。都合に応じていつでも赦免できますからね。

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春日局になめられてとうとう怒りの譲位!

実際に、彼らのほとんどは後々大赦されていて、紫衣も戻されています。
この事件の後、さらに後水尾天皇を怒らせたのが春日局。家光の乳母のあの人です。
彼女は教育係だけでなくいろいろな仕事をしていましたが、寛永六年に元々病弱だった家光が寝込んだとき、伊勢神宮まで平癒祈願へ行ったことがあります。そのついでに宮中のご機嫌伺いのため、御所へ上がろうとしたのです。

明智光秀重臣の娘がえらくなりましたね、春日局さん(Wikipediaより)

明智光秀重臣の娘がえらくなりましたね、春日局さん(Wikipediaより)

が、元々彼女の身分的にそんなことができるはずはありません。それなのに、わざわざ直前に遠い祖先の血を辿り、当時の主と義理の兄弟として縁を結んで体裁を整えるという、あからさまにその場しのぎの対応をして参内しました。
この世で最も尊いとされていた天皇への拝謁を、武家の人間が後から取ってつけた身分でやろうとし実行したことで、後水尾天皇の怒りは頂点に達します。
そして幕府に何の連絡もせず、当時まだ5歳だった娘・明正天皇に譲位してしまったのでした。
「私の意見を蔑ろにするなら、いつ譲位しても構わないよな?^^」と思ったのかもしれません。
ここまでがコレじゃあ、そう言いたくもなりますわな。

とはいえ全てを放り投げたわけではなく、上皇としてその後も宮廷には関わっていたのですが。ついでに?幕府との対立も終わらず、後々まで尾を引いていくことになります。
刃傷沙汰など物騒なことにならなかったのは、妻の和子(まさこ)が間に入ってうまく取り持っていたということが大きいようです。嫁姑のバトルはよく聞きますが、舅(幕府)と夫の争いなんてさぞ気苦労が多かったでしょうね。
……あれ、一番可哀相なの和子じゃね?

長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/後水尾天皇

 




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