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その日、歴史が動いた 伊達家 合戦

伊達政宗「人取橋の戦い」 君臣愛にふるえる絶体絶命の合戦だった

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世の中には「必要悪」というものがあります。
決して褒められたことではありませんが、何らかの理由でやむを得ず社会的にマズイことをせざるをえない……というケースですね。
現代ではもちろん犯罪として裁かれますが、歴史上ではこういうことは珍しくありません。その際たるものは強大な敵からの自衛、もしくは復讐のための戦争でしょう。
当時の人たちにとっては迷惑極まりないですけども、後世の歴史ファンにとっては胸アツ展開ですよね。
本日は日本であったそんな戦のお話です。

天正十三年(1585年)11月17日、東北で人取橋の戦いという大規模な戦がありました。
戦の構図としては、伊達家vs畠山家&愉快な仲間達といった感じです。
何でまたこんな涙目状態になっているのかというと、それなりの経緯がありました。
伊達政宗が父・輝宗から家督を継ぐまでの間には諸々のトラブルがあったわけですが、それは対外関係についても同じでした。
性格的な容赦のなさ、そして若さゆえの性急さも相まって、時に苛烈な手段を取ることも多々ありました。
人取橋の戦いはそうした対外関係のトラブルから派生した戦です。

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経緯を事細かにお話しするとそれだけで2・3記事は書けてしまうので、テキトーに端折りますと「畠山家の当主が政宗への取り成しをトーチャンの輝宗に頼んだけど、うまく行かなくてブチキレて輝宗を道連れにして死んだ」のが直接のきっかけでした。
伊達家にとってはご隠居、畠山家にとっては大事な大事な当主が相手のせいで突然死んでしまったのですから、そりゃお互いにブチキレるわけです。

 

伊達家VS畠山家WITHオールスターズ

こうして伊達家と畠山家の間で各所の城を舞台とした戦が起こります。政宗は怒りと力任せて攻め込みますが、畠山家が篭城戦に持ち込み、なかなか決着がつきませんでした。
その間に、周辺の大名はほとんど畠山家に味方することを決めます。
政宗があちこちで恨みの種を蒔いてしまっていたこともありますが、最大の理由は二本松城の畠山家の跡継ぎがまだ元服もしていないような子供だったからです。「か弱くお若く可哀相な若様に味方する」という大義名分ができますし、うまく行けば畠山家を取り込んで自分の勢力圏を広げることもできると考えた大名が多かったんですね。

人取橋古戦場(本宮市HPより)

人取橋古戦場(本宮市HPより)

こうした泥沼状態の最終決戦の地になったのが、阿武隈川の支流にかかる人取橋付近でした。
そもそもいくつもの家がまとまって来ているのですから、兵力は畠山家と愉快な(ry)側が圧倒的に多く、数だけで四倍以上もの差がついていたといわれています。
一時は伊達家の本陣まで侵入し、政宗自身銃創5・矢傷1を受けるほどの大激戦になったとか。

 

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鬼庭散る!伊達成実下がらす!

ここに至って、伊達家の家臣たちは戦での勝利よりも、政宗一人を生かすことを選びました。
輝宗の代からの重臣・鬼庭左月が老体ながらも殿(しんがり)を務めるばかりか、自ら敵中に入って壮絶に討死。
政宗の従弟・成実(しげざね)は少し離れたところにいて挟み撃ちに遭いましたが、後退せずその場で迎撃し、政宗が逃げる時間を作りました。

冬も近い時期の東北で戦をすること自体が無謀な上、上記の兵力差やその他諸々の面から反対されていた戦だったにしては、伊達家のこの戦いぶりは見事なものです。
もし名のある家臣が一人でも、もしくは一兵卒であっても大人数で政宗を見捨てていたら、恐らく伊達家はそのまま滅亡への道をたどっていたことでしょう。
古今東西、指揮官のやる気があっても兵の士気が低すぎて負けた戦というのは珍しくありませんからね。
となると、対外関係はともかく、政宗は日頃兵となる領民にそれなりの気遣いや善政を見せていたであろうことがわかります。
その上でのこの展開、実に胸が熱くなります。

 

局地戦で負けた政宗が一気に展開を逆転したわけ

ちなみに上記の通り戦闘そのものは伊達家の惨敗に近い状態で終わりましたが、東北の情勢としてはそうとも限りませんでした。
愉快な仲間達の一つ・常陸(だいたい今の茨城県)の大名である佐竹家で内紛が起きたのです。さらに関東の大名である北条家や里見家が「よーし今のうちに佐竹ぶっ潰しちゃうぞーw」という動きを見せているという知らせが来たため、佐竹家は「一抜けた!」と関東へ帰ってしまいました。そりゃ地元のほうが大事デスヨネー。
伊達家と北条家は昔から付き合いがあったので、そういう手筈になっていたという説もありますが、それだったら最初から佐竹家が東北に来れないように突っついておけばいいわけですし、どうでしょうね。政宗がピンチになってから早馬を飛ばしても遅すぎますし。
そんなわけで数々の偶然(という名の陰謀?)が重なり、伊達家は何とか「試合に負けて勝負に勝った」状態を作り出すことができました。
旧暦の11月半ばですから、既に雪も深まる季節。天候的に戦を続けることは不可能でしたし、冬の間に政宗の頭も大分冷えたようです。

春から戦を再開したものの結局城を攻め取ることはできず、相馬家というこれまた東北の別の大名に仲介してもらって和睦を結ぶことで、一連の騒動は治まりました。

ちなみにこの戦に絡んでいる大名のほとんどが従兄弟同士もしくはおじ・甥だったり、現代でいう3~4親等くらいの血縁者です。血が繋がっていなくても、婿・舅関係の人もいました。

あんまりにもややこしいので詳細は割愛しますが、人取橋の戦いを始めとした東北の戦が長引いたのはここが大きな原因になっています。戦にはなっても、最終的に「血縁(縁戚)なんだからその辺でやめなよ」ということになってしまうのです。

現代人からすると「それなら最初から戦をしなければいいのに(´・ω・`)」と言いたくなってきますが、そこは縁よりも「自分の家を大きくしよう」という欲が勝ってしまうのが大名という人たちなんですよねー。

権力という面では、現代のお偉いさん達も似たようなものですが。日本だけじゃなくて世界のどこでもそうでしょうけども。
世界平和が真に成り立つには、人類があと三回くらい進化しないといけないんですかねえ。

長月 七紀・記



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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/人取橋の戦い

 

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