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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

楠木正成の嫡男・楠木正行(まさつら) 彼もまた最期まで幕府に反し……

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偉大すぎる親を持つと、子供も大変なものです。
勝らぬとも劣らぬ能力を持っていれば気に病むこともないのでしょうが、半々くらいの割合でプレッシャーに押しつぶされて悲劇的な運命を辿ってしまった人もいますよね。
しかし武家の場合そんな甘っちょろいことも言ってられないわけで、皆時代の趨勢に逆らってでも役目を果たそうとしていました。

正平二年(1347年)11月26日に住吉合戦と呼ばれる室町幕府との戦いへ挑んだ楠木正行(まさつら)も、おそらくはそんな気分だったでしょう。

以前も楠木家を扱った記事で度々名前が出てきた、正成の長男です。有名な「桜井の別れ」では父を案じつつも「俺の代わりに最後まで戦え」との命に従って名残を惜しみながら引き返したあの人ですね。

楠木正行石像/wikipediaより引用

 

500の寡兵で幕府軍6000に立ち向かう

生年がはっきりしていないので何歳くらいだったのかはわかりませんが、少なくとも「別れ」から住吉合戦までは10年ほどありますので、心身ともに父によく似た武士になっていたことでしょう。
この間には新田義貞など他のめぼしい武将もいなくなってしまっていたため、南朝方としても正行の存在は心強かったようです。現在の大阪府にある住吉や天王寺方面などで足利軍を打ち破り、名実共に中心的な存在になっていきます。

しかし、幕府軍としてもそうやられっぱなしでいるわけにはいきません。
そこで後々室町幕府の重鎮となる山名時氏と細川顕氏(あきうじ)という人物に6000の兵を与えて、「正行を何とかしてこい!」と命じました。
大軍となると統率が取れずに自滅するのがテンプレですが、このときは別格。上記の通り正行にコテンパンにやられた後でしたので、士気という名の殺る気は充分でした。

元々数で不利なことがわかりきっている正行は、この知らせを聞いて「もし天王寺にでも篭られたら、寺社に弓を引くことになりかねない。善は急げだ!」(超訳)と考え、500ほどの小勢で幕府軍を迎え撃つべく出発します。さらに100名ずつの隊を五つ作り、各個撃破を狙いました。

父は、あの楠木正成/wikipediaより引用

 

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島津の退き口を彷彿とさせる

当然幕府軍もこの動きは掴んでいて、数の有利を生かし包囲戦へ持ち込もうとします。

が、正行のほうが早く判断を下しました。
先程分けたばかりの100人×5隊をもう一度500人×1隊に編制し直して、一点集中攻撃をすることで包囲を突破しようとしたのです。

文章にすると簡単に見えますが、これは一筋縄どころの話ではありません。多少敵陣を押して凹みのような部分を作ったところで、左右から囲まれたり再度陣形を作り直されたらお終いだからです。モタモタしていると、さらに包囲を狭められて全滅するおそれすらあります。

もっとも、そこまで追い詰めると人間とんでもない力が出るもので、「窮鼠猫を噛む」そのままの現象が起きることが多かったようです。兵法書「孫子」にも「敵を囲むときは一ヶ所退路を開けておかないと、かえってこちらが痛い目を見る」(超訳)といったことが書かれているくらいですから、はるか昔からそういうものだったのでしょうね。
厳密には違いますが日本で例を挙げるとすれば、関が原の戦いで島津義弘が東軍を正面から突破して国へ逃げ切った「島津の退き口」が近いでしょうか。

 

敵の大将・山名時氏にケガを負わせ

さて、住吉合戦ではどうだったかというと、そこまでの状況にはなりませんでした。
両軍共に少しずつ移動し、瓜生野という見通しのいい場所に出たからです。現在の地名でいえば大阪市東住吉区瓜破あたりになるそうですが、ググる先生にお尋ねすると老人ホームやら小学校が出てきてちょっとビックリしました。
現在はごく普通の町ですが、当時は双方の大将の声がよく通るような場所だったそうですから、「野」とつく通り一面野原だったのでしょうね。

どうでもいい話ですけども、付近の適当なところでストリートビューを見たら、シャッター街状態でちょっと哀しくなってしまいました(´・ω・`) ※ただ単に休みの日に撮っただけかもしれませんが。

野原とはいっても、当時の大阪は湿地帯がそこかしこにあるような場所です。今ではもう少し整備が進んでいますが、それでも川やら沼やらが点在していますから、南北朝時代ともなればいわずもがなもっと多かったでしょう。
ただでさえ冷え込む旧暦11月の末、水場の近くであれば体を這い上がる冷気は倍増します。そしてそれは、一番身分の低かった兵卒達の士気を引き摺り下ろすには充分すぎたのでしょう。
今度はお約束通り、多勢だったはずの幕府軍の兵が次々と戦意を失い、統率が乱れ、何と総大将の一人・時氏が重傷を負うほど前線が崩れてしまいました。

以前どこかの記事でお話したような気がするのですが、総大将というのは基本的に前線には出ません。命惜しさに隠れているわけではなくて、少し下がらないと戦場全体の様相がわからないからです。それに、無闇に動くと伝令がきちんと届かないおそれもありました。
そのはずの総大将がケガをしたのですから、どんな状態だったかはご想像の通りです。

楠木正行

妖怪を退治する楠木正行(楊洲周延『東絵画夜競』)/Wikipediaより引用

 

大勝利からわずか2ヶ月後 楠木家は皆自刃

これを機に、双方大きく動き始めます。
幕府軍はもちろん全滅を防ぐべく全力で撤退し、正行たちは逃がしてなるか!と追撃をかけました。
この時点で後者の士気はオーバーヒート状態だったでしょうが、幕府軍も幕府軍で友軍の安否も気にかけないほどの逃げっぷりだったそうで、(悪)運の良い人々は何とか京都まで落ち延びることができたようです。

こうして正行たちは住吉で大勝利を収めることに成功し、南朝方からの覚えはいっそうめでたくなります。
しかし、その後たった二ヶ月程度で四条畷の戦いが起き、楠木家は今度こそ皆自刃して、滅びてしまいました(´;ω;`)

泣いておいてナンなんですけども、後世から見ると彼らが歴史の表舞台から退場するタイミングとしては最適だったのかもしれません。
江戸幕府が始まっていわゆる「太平の世」へ向かったとき、武力で身を立てたり高い評価を受けていた武将のほとんどが「俺はもうこの世に必要ない存在なんだ」と言ったことがあるという記録が残っています。有名どころだと福島正則とか本多忠勝とかですね。

もし楠木一族が室町幕府と戦わず、幕臣として残っていたとしたら、そんな風になっていたんじゃないですかね。となると、自刃という悲劇ではあっても本懐を遂げられたことはよかったのでは……とも思います。

幸せって難しい。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記

 

 



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