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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた 源平

武士の代表・清和源氏のルーツ 清和天皇ってどんな方だったの?

更新日:

 

元慶四年(880年)の12月4日は、清和天皇が崩御した日です。昨日から皇室ネタが続き、サーセン。
べ、別に「歴代天皇の命日だけで124日分ネタが消化できるぜウェッヘッヘ」とかじゃないんだから! 勘違いしないでよね!

……まあ茶番はそこまでにしまして、天皇が日本で最も尊い存在とされたからこそ神話の時代から現代まで続いているわけですが、中には一般人からすると「誰?」と思ってしまうような方もおられますよね。
その中では、清和天皇の名前は比較的知られているほうではないでしょうか。特に武士、さらに源氏ファンの方々であれば一度は目にされているかと思います。

なぜかというと、源頼朝をはじめとしたいわゆる”源氏”は、清和天皇の子孫の血筋だからです。
あまり詳しくない方からすると「じゃあ皇族じゃないの? 源氏って一体何なの?」とハテナを大量生産してしまうところですが、その辺はまた後ほど。
先に清和天皇の一生をお話しましょう。

清和天皇/Wikipediaより引用

清和天皇/Wikipediaより引用

 

わずか9歳で即位 その背景には祖父の藤原良房が 

清和天皇は先代・文徳天皇の第四皇子として生まれました。
既に藤原氏フィーバーが始まった後の時代だったため、母が藤原氏の姫だった清和天皇は兄皇子をすっ飛ばして皇太子になります。立太子のときはわずか8ヶ月だったそうですから、藤原氏の横暴振りがわかるというものです。

そして父君が亡くなると、わずか9歳で天皇の位に就きました。もちろん母方のジーチャン・藤原良房ががっちり脇を固めています。
既に太政大臣の位を得ていたため、位として摂政にはならなかったようです。やってることは似たようなものですが。

が、改めて良房を摂政にせざるを得ない事件が起きます。
以前こちらの記事(過去記事:藤原無双の始まり始まり【その日、歴史が動いた】)でも取り上げましたが、応天門炎上事件と呼ばれる、そのまんまの不敬な出来事があったのです。
これによって良房は政敵を犯人に仕立て上げて追い落とし、表向きは「ワルモノを退けた」ということになるので、清和天皇は彼を一層信頼する証として摂政の位をやらざるをえませんでした。
ちなみにこの頃、清和天皇は17歳。摂政が要るかどうかといえばまあ「いたほうが心強い」という年齢ではありますけども、経緯が経緯なだけに釈然としないものがあります。

 

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27歳で突如、9歳だった陽成天皇へ譲位 

さすがに20歳超えたら親政をするか、摂政を取り消すかするかと思えば、清和天皇はそうしませんでした。
というか、既に藤原氏から権力を奪うことができない状態に陥っていました。まあ、彼らの顔と態度が心底デカくて奥さん押し付けられるわ、子供を掠め取るような真似をするわで散々だったことは確かですけども、一応代々続いてきた公家ですから、皆それなりにデキる人たちですからね。基本的には。
そのため清和天皇は争いを避け、良房が亡くなるまで摂政を解任したりはしなかったようです。

その代わりというかなんというか、清和天皇はウルトラC級の反撃?をします。
なんと27歳の若さで突然「私もう天皇辞めるわ。後は息子とうまくやってくれ」(超訳)と譲位してしまったのです。次の天皇は陽成天皇という方なのですけども、偶然か意図的なものか、このときは清和天皇が位についたのと同じ9歳でした。

さらに清和”上皇”は譲位から三年後に頭を丸め、仏門に入ってしまわれます。しかもただの出家ではなく、断食など最も尊い血筋とされていた方がやるには荒すぎる苦行をした上でのことでした。
平安時代に「やっべ、出家してから死なないとバチが当たる」みたいな感じで貴族の通過儀礼的に頭を丸めていた貴族たちと足して割ったらちょうどいいかもしれません。それこそ罰当たりか。
ちなみにお釈迦様的には「苦行とかやっても悟り開けないから無駄無駄無駄ァ!」(超訳)だそうです。実際にやった方が言うんだから間違いないでしょう。多分。

 

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臣籍降下で多くの源氏や平氏が誕生していた 

清和上皇がなぜそこまで苦しい修行を選んだのかは定かではありませんが、この世にいるうちは安寧を望んだようで、京の中に御所を作らせたのではなく、都の中心からは少し離れた水尾という場所を終の棲家としました。現在の地名では京都市右京区水尾です。1200年前からある地名と考えると、さすが京都ぱねえ。
亡くなったのはもう少し離れたところにある清涼寺というところなのですけども、これまた現在の地名では同じ右京区なので概ねご希望が叶ったと見ていいでしょう。
陵(みささぎ。皇族のお墓)は水尾に作られています。

こんなわけで武士とは全く縁のなさそうな生涯を送られた方なのですが、ここで冒頭のお話に戻りましょう。
31歳というお若さで亡くなったものの、清和天皇には数多くの皇子・皇女がいました。そして皇子のうちの何人かが「源」の姓をもらって臣下に降っています。このようにして皇族の身分を離れることを”臣籍降下”といいますが、一般的にイメージされる”源氏”や”平氏”のほとんどは臣籍降下した元・皇族の子孫達です。
子沢山な皇族ほど子供や孫が臣籍降下する確率も高く、そのため枝分かれした人の親の名を取って「○○源氏」とか「××源氏」というように系統を区別しています。
清和天皇から枝分かれした源氏は「清和源氏」で、誰もが知っている有名な源姓の人はほとんどこの系統です。さらに細かく枝分かれするときには全く別の名字を名乗ることもよくありました。
有名な例でいうと、新田氏(義貞の家)や武田氏(信玄の家)は清和源氏からの枝分かれです。

 

武家ではない公家の源氏・平氏も多々おります

だんだんややこしくなってきましたが、学校の科目で例えると「歴史」の中に「日本史」「世界史」があり、さらに「日本古代史」「日本中世史」「国文学史」に分かれていくのと似たようなものです。要するにカテゴライズですね。
そんなわけで「源氏の血筋って言ってるけど名字違うじゃん」というようなことが起きるわけです。

ちなみに元が皇族なので、後々武士になった人たちだけでなく、公家の源氏や平氏もたくさんあります。清和天皇が亡くなったのも、源融(みなもとのとおる)という貴族の別荘でした。そこが清涼寺の原型です。
百人一首にも歌が取られていますし、光源氏のモデルの一人ともされているのでご存知の方も多いのではないでしょうか。そうそう、光源氏も臣籍降下の一例ですね。

臣籍になる理由は「皇族のままだといろいろ制限があるので生活が苦しいが、臣下になればできることが増えるため、生活を安定させることができる可能性が高い」という切実な状況から、というのが多かったようです。
室町以降の天皇家もそうですが、最も尊い血筋の方々がお金に困ることがある、というあたりが日本で皇室が存続できた一因なのかもしれません。臣籍降下はある意味リストラ・早期退職みたいなものですから、親近感がわきますものね。

清和天皇が亡くなってしばらくの間は藤原無双の時代が続きます。その後清和源氏によって武家政権が作られ、概ね700年ほど武士中心の世の中になっていくことを考えると、この方が荒行で祈ったことは決して無駄にはならなかったのかもしれません。
ご利益出るまでがロングスパンすぎますが、地獄の時間感覚がいろいろアレですので、もしかすると極楽にいる仏様方も似たような感覚なんですかね。あ、また罰当たりなこと書いちったテヘペロ。

 

長月 七紀・記

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/12/post-d1ba.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/清和天皇

 




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