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徳川家重/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

徳川家重の「小便公方」はあんまりだ! 田沼意次を重用し、身を引く時も鮮やかだった9代将軍

更新日:

「歴史は勝者のもの」と言われますが、太平の世であった(ことになっている)江戸時代においては、「幕閣のもの」といっても過言ではありません。
幕府の公式記録は将軍や市井の人が書いたものではなく、ほとんどは幕府のお偉いさんが書いたものだからです。

そのため、記録として書かれたものよりも個人間の手紙や日記のほうがより詳しいことがわかるということも多々あります。
公式記録に私情を挟むなと言いたいところですが、幕閣のほとんどはお手当はつかず、自分の領地からの収入しかなかったので、多少なりとも私情が入るのはしかたのないことなのかもしれません。

これが一番顕著に現れるのは、おそらく歴代の将軍に対する評価でしょう。近年再評価されつつある五代・綱吉などがわかりやすいでしょうか。

正徳元年(1712年)12月21日に誕生した、九代・徳川家重ももしかしたらそういう扱いになるかもしれません。

何せ一つ前の代かつ父親が”中興の祖”こと徳川吉宗ですから、何かと比較されてしまうのは仕方のないことです。
人生のほとんどを江戸城という限られた空間で、ごくわずかな特定の人としか直に接しない生活の上にそんな目で見続けられていたとしたら、多少性格がひねくれるのも仕方がないことです。

 

幼少の頃から偏見の目で見られていた!?

家重が生まれたのは吉宗がまだ紀州藩主時代、江戸藩邸でのことでした。
父親の将軍就任に従って江戸城に入ったのですが、この頃から既に偏見の目で見られていたらしき形容をされています。というのも、生まれつき何かの病気で言語が不明瞭になっていたため、「これでは跡継ぎにふさわしくない」と言われまくっていたのです。実際、もう少しで幕閣に廃嫡されかかったこともありました。

が、吉宗は結果的に家重を跡継ぎに選びました。
一説には、家重自身ではなくその息子、つまり吉宗から見れば孫である家治を将来将軍にするためとも言われていますが、あくまで一説です。一説ですったら。

もし皆さんの父親が暴れん坊だったら、たまりませんよね・・・/Wikipediaより引用

もし皆さんの父親が暴れん坊だったら、たまりませんよね・・・/Wikipediaより引用

 

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上野寛永寺までの道中に23ヶ所のトイレ→小便公方

将軍の座に就いても、吉宗は存命中ずっと大御所として権力を持っていたため、家重が親政をしたのは十年もありません。

しかもストレスのせいか体質のせいか、頻尿に悩まされていた家重は市井の人々からもバカにされ、「小便公方」とまで言われていました。これは徳川家の菩提寺・上野寛永寺までの道中に23ヶ所もトイレを作らせたからだといわれているのですが、あんまりな話ですよね。

現代でもこの症状に悩まされている人は多いので、何となくわかる方もいらっしゃるかと思いますが、頻尿というのは臓器の疾患だけでなくストレスで悪化することがままあります。
つまり、家重の頻尿は幕閣その他からのプレッシャーで悪化していた可能性が非常に高いということです。どう考えても23ヶ所というのは多すぎますから、実際に使うかどうかというよりも「そのくらいの数がないとすぐ行けない」という不安の大きさの表れなのではないでしょうか。
当時の知識ではストレスと病気の関連性なんてわかりませんから、仕方のないことではありますが……自分達で追い詰めておいてpgrするとかどこまで性根が腐ってればできるんでしょうね。

 

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一介の旗本に過ぎなかった田沼意次のスペックを見抜いている

しかし、家重は自分の限界をきちんと理解していたらしき行動もしています。根拠は次の二点です。

一つは、唯一彼の言葉を聞き取ることができた大岡忠光という家臣が亡くなった後、将軍職を家治に譲っていることです。自分の意思を汲み取ってくれる人がいないということは、どんなに真面目にやっても誰もわかってくれないということになりますよね。
精神的にキツいからというのももちろんあるでしょうが、それが世のためにならないことがわかっていたからこそ、潔く身を引いたのではないでしょうか。

もう一つは、田沼意次を大名に取り立てていることです。
意次は元々一介の旗本(将軍に直接お目見えできる最低の身分)に過ぎず、本来なら大名にも老中にもなるはずのない家柄でした。
意次は幼少期に家重の小姓をやっていたことがあるため、お互いの性根や能力はよくわかっていたでしょうから、公私共に信頼できる人物として登用したのでしょう。

この二つを総合して考えると、口に上手く出せないだけで、本当は優れた頭脳の持ち主であった可能性は否定できませんよね。
現代だって吃音等がなくても、言葉遣いが悪かったり言葉が足りなさ過ぎてうまく意思を伝えられない人というのはいるのですから、江戸時代の人をその一点だけで咎めるのはいかがなものかな、という気がするのです。

家重本人の書付か何かが見つかれば、また変わった評価をされるようになるのかもしれません。
その暁には、ぜひドラマや映画で取り上げていただき、一般的なイメージが良くなることを期待したいと思います。

長月 七紀・記

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参考:徳川家重/Wikipedia

 

 




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