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その日、歴史が動いた 豊臣家

大坂城の歴史~本願寺が立て籠もり、秀吉が建て、徳川が潰して再建した大坂城

更新日:

 

(元)を含め、日本には城下町として知られている町がいくつかありますよね。
何となく城の主のイメージとダブるのか、建築様式など詳しいことがわからなくても、それぞれ違う印象がある気がします。
中でも明るい印象が強いのは、多分大阪城じゃないでしょうか。末路を考えるとアレな気もしますが、「太閤さん」の城と考えればそんな感じしません?

が、とある年のお正月早々、このお城にはイヤなイベントが発生したことがあります。
寛文三年(1665年)1月2日の落雷で、天守が焼けてしまったのです。
「あれ?そもそも大坂夏の陣で燃えてなかったっけ?」とツッコミたくなった方もいらっしゃるかと思いますので、今回は大坂城の歴史をざっくり見ていきましょう。

 

信長の西進を食い止めていた石山本願寺

元々この場所には、石山本願寺がありました。信長があの手この手で攻め落とそうとしたものの、双方消耗が激しかったため、正親町天皇の勅命によって講和した「石山合戦」の舞台になったあたりですね。

その後はミスターオール4こと丹羽長秀(過去記事:派手な織田軍団でお米のように欠かせない人 丹羽長秀の人生【その日、歴史が動いた】)に預けられていたのですが、秀吉が天下人になると、ここを本拠に定めて大坂城を建てました。
秀吉時代のことは多分良く知られていると思うので割愛しますね。

そして大坂冬の陣では大砲でボッコボコになった上に全ての堀を埋められ、夏の陣では裏切り者によって放火され、見るも無残な状態になってしまいました。
このときの燃え方は遠く京都からも見えたそうですから、ほぼ全ての建物が亡くなっていたと見ていいでしょう。

 

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秀吉時代の遺構を埋め立てその上に天守閣を建設 

じゃあ何でそれから50年も経った江戸時代に焼失するような天守があったのかというと、実に単純な話でした。徳川家が建て直していたのです。

とはいえ、ただ単に再建したのではなくて、秀吉時代の遺構をほとんど埋め立てて、その上に作るという悪意満載なやり方でした(そのため、天守閣の場所自体は少し異なる)。
全部片付けるのに手間がかかることと、豊臣家のイメージを潰したかったからというのが大きな理由でしょうね。そのまま放置しておくと「豊臣家の無念を俺達が晴らすんだ!」みたいなことを言い出す輩が出ないとも限りませんし。

そんなイヤな理由ではありましたが、周辺が天領(江戸幕府の直轄領)になるのとほぼ同時に、2代将軍徳川秀忠の命で再建工事が行われました。9年かけて立派に天守や櫓が建てられており、現在国宝として残っているものもこのときのものです。

以降は京都所司代と並んで、幕府の西の拠点として重要視されることになります。
天領なので城の主は代々の将軍でした。しかし、しょっちゅういるわけにはいかないので城代という代官とサポート役の大名が何人か詰めており、警備もきちんとされています。

江戸時代には一揆がたびたび起きていますし、大坂でも大塩平八郎の乱などが起きていますけども、”大坂城”を根城にしたものがないのはそういうわけなんですね。

ジャストギビング「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」より引用

ジャストギビング「大坂城豊臣石垣公開プロジェクト」より引用

 

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慶喜バックレ! 幕府軍と新政府軍がドンパチ 

しかし、落雷による火事で、立派だったと思われる天守はあえなく焼失してしまいました。この時期に落雷というのが胡散臭いとか言っちゃダメですかね。全くないわけじゃないですけどきな臭いというか放火のほうがしっくりくるというかゲフンゲフン。

その頃には江戸城の天守も明暦の大火でなくなっており、保科正之が「もう戦はないし、お金に余裕があるわけじゃないんだから、町の復興にお金使おうよ(´・ω・`)」(意訳)と言ったおかげで再建されないことになっていました。ゆえに、大坂城も再建されなかったようです。そりゃそうだ。

周りの櫓は残っていたので、城らしい威容は保っていたようです。

が、大坂城の受難は終わりません。次の災難は幕末、最後の将軍・慶喜がここへやってきたところから始まります。

慶喜はさっさと逃げ……戦略的撤退により江戸へ向かいましたが、そうとは知らない新政府軍と幕府軍の間でドンパチ開始、ほとんどの建物が焼けてしまったのです。もはや、とばっちりってレベルじゃねー!

 

「大阪城は市民が建てた」と言われる所以

明治時代に入ったら再建してもらえるかと思いきや、まずは軍用地としてその広さが先に注目されることになりました。
当時は時報として大砲を鳴らしていたので、城の跡地ならちょうどいいというわけです。

明治年間の間に和歌山城の建物が移築されてきたり、本丸の門が再建されたりと、一応手入れもされていたので、まあまあといったところでしょうか。
現在のような公園にしようという計画は大正時代に持ち上がったもので、昭和に入って実行されることになりました。この頃から市民の募金が大切な資金になっていて、そのため「大阪城は市民が建てた」とも言われる所以になっています。

この頃には建築技術も進んでいたので、一年ほどで鉄筋コンクリート造の立派な天守閣が再建されました。
当時としては国内に前例のない高層建築であり、天守閣復興第一号でもあり、さらに内部を資料館にするというのも初めてのことで、当時の大阪市民がいかにこの城を大切に思っていたかがわかります。今ももちろんですが。

が、その後大阪大空襲などによってまたしても壊滅的な被害を受けた上、戦後も昭和二十五年(1950年)のジェーン台風でさらに損害を受けてしまいます。
もう書いてて可哀相になってきた(´;ω;`)

 

なぬっ!秀頼らしき頭蓋骨が見つかっただと! 

その後はようやく、この城にとっていいことが起こり始めます。補修及び豊臣家時代の遺構の調査などが始まったのです。

怪我の功名というのがふさわしいかどうか微妙なところですが、昭和五十五年(1980年)には秀頼と思しき介錯痕のある頭蓋骨が見つかったそうで。
真偽の程は今もはっきりしませんが、愛馬と思われる馬の骨も同時に見つかったことからも秀頼などかなり偉い人の可能性があるかもしれません。現在は秀頼にゆかりのある清凉寺というお寺で、他の戦没者の慰霊碑の隣に埋葬されているそうです。
どこかで「この頭蓋骨が発掘された際、涙を流した」という話を聞いた覚えがあるのですが、また出典忘れましたテヘペロ。多分ホントだったとしても、「隙間に溜まってた雨水が持ち上げたときに流れ出た」とかそんなところでしょうけどね。ロマンはロマンとして言い伝えてもいい気がします。

秀頼さんが、もうすこしシッカリしていれば・・・/Wikipediaより引用

秀頼さんが、もうすこしシッカリしていれば・・・/Wikipediaより引用

 

文化庁の調査命令を無視して本館ぶっ壊した? 

その後は無事現在の姿になった……といいたいところですが、ここではもう一つ事件をご紹介したいと思います。
秀頼?が見つかった翌年、大阪市が旧軍の持っていた工場の本館を壊しているのです。

そりゃ旧軍に対して嫌なイメージがあるのもわかりますが、市民の保存運動があった上、文化庁が調査を命じていたにもかかわらず、無理やり壊したというのは大問題なんじゃないでしょうか。
当時の大阪市のお偉いさんによると、「古いものは京都や奈良で充分だ」「どうせ空襲で半壊してるんだからとっとと壊せ」「明治・大将の洋風建築はただの猿真似なんだから残さなくていい」みたいな感じだったようですが。

でもここ、「火吹き達磨」こと大村益次郎が計画して建てたものだったので、そこだけでも充分残す理由があったんじゃないかと思うんですけどね……。

この跡地に大阪城ホールが建てられているので、そのためだったのかもしれませんが、実に後味の悪い話です。この話が大阪城公式サイトに載っていないのもイヤーな感じですね。当たり前だけど。
本館以外の一部の建物は残ってるんですが、立ち入り禁止のまま今後どうするかは全く決まっていないようで。レンガ作りでレトロ感あるし、人気出そうだと思うんですがもったいないなあ。
カジノよりここを手入れして、観光客が入れるようにしたほうがお金落ちるんじゃないですかねー(ボソッ)。

まあ最後の話はともかく、これからもこのお城とその周辺が大阪を象徴する建物・区域であることは間違いないでしょうね。
今後は末永く存在していてほしいものです。

 

長月 七紀・記

TOP画像 photo by Faustino Garcia

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参考:大坂城/Wikipedia 十三のいま昔を歩こう 大阪城バーチャルツアー

 

 




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