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その日、歴史が動いた 江戸時代

大名自らが人員を率いて火消しに当たる「大名火消」……徳川家光の時代に設置されたワケ

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今更言うまでもなく、江戸はとても火事の多いところでした。
木造建築が密集していたこと、冬場の空気の乾燥などで被害の広がりやすい条件が整ってしまいがちだったからでしょうね。放火犯も多かったようですし。それでも人口が増え続けたのですから、人間たくましいというか何というか。

では日頃から何も備えていなかったのかというと、もちろんそんなことはありませんでした。
寛永十一年(1643年)の1月29日に設置された、大名火消がその一つです。将軍で言うと三代・家光の時代ですね。

東京名所八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図/Wikipediaより引用

東京名所八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図/Wikipediaより引用

 

徳川家光  自ら指揮をとって火消しに動いたが

「○大大火」の中には入っていませんが、この二年前の年明け、例によってデカイ火事が起きたため、「大名も有事の際には現場で働くべきだ」ということで設置されました。
このときはあまりに規模が大きく、家光自身で指揮を取っても早期に消し止めることはできなかったとか。

武勇談の好きな家光のこと、きっと御伽衆(話し相手)の戦国生き残りメンバーのように立派に指揮を取ってみせたかったのでしょうが、残念でしたね。そして恐らく、保科正之や幕閣皆で胃を痛くしていたことでしょう。お疲れ様です。
土井利勝とか春日局の寿命が縮んだんじゃないですかね。二人ともこの数年後に亡くなってますし。

「大名自らが人員を率いて火消しに当たる」という充分意味のある役職だったのですが、太平の世が続き大名が武士から政治家へと形を変えていくと、大名火消の役目も形骸化してしまいました。
中にはパリコレの如く衣装を飾り立てる者もいる有様で、お上からお咎めを受けてもなかなか改善されなかったといいます。現代でも災害のとき首相の食事がどうたらというニュースになりますが、それどころじゃないですね。

いつしか火事はもちろん、そうした大名火消を見物に来る野次馬も増えたとか。まあ、ちょっと前には合戦場も見世物みたいなものでしたし、こうも頻繁に起きると緊張感がなくなってしまうのも無理のない話ではあります。

火消しに使われた水鉄砲/Wikipediaより引用

火消しに使われた水鉄砲/Wikipediaより引用

 

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羽織に竜虎の絵が描かれたり、衣裳がどんどん派手に・・・ 

とはいえ、衣装が派手になっていったのは実際に火の元を壊す町火消たちも同じ。こちらは随分後の徳川吉宗の時代に設置されたものですが、どの組なのかすぐわかるようさまざまな衣装や工夫を凝らしていました。
彼らは、自分達の功績を示すためですからまだマシですけどね。それなら戦国時代の変わり兜や旗とほぼ同義になりますし。

羽織の背中に大きく竜虎の絵が描かれていたり、チェス盤のように白と藍色を互い違いに組み合わせた模様だったりと、なかなか洒落ています。いつ火の粉が飛んでくるかわからんというのに悠長というか何というか。

でもそれはそれで「男の勲章」と受け取られたのかも知れませんね。背中の傷は恥ですが、火の粉をかぶるようなところから生きて戻ってきたというのは充分自慢になるでしょうし。

 

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建物ぶっ壊すのが仕事!とにかく目立たねば危険だぜ 

また、火消しといえば「纏」(まとい)も欠かせません。
鯉のぼりの横で一緒に泳いでいる吹流しを裂いて、縦にしたような形のアレです。……余計わかりづらかったらスンマセン。
今のようにポンプ車などはありませんから、当時の火事は「火を消す」というよりも「燃えている建物を壊して延焼を防ぐ」のが主でした。となると火に加え、破壊したあれこれに一般人が巻き込まれるのを防がなくてはいけませんよね。
しかし「今からこの辺あぶねーぞ!」と言ったところで、火事場の喧騒の中聞こえるはずがありません。そこで危険をわかりやすく知らせるために作られたのが纏です。
これを現場のすぐ近くの屋根の上で振り回し、危険を知らせました。

江戸の火災現場といえばコレっすよね・・・(東映太秦映画村で再現された「め組の纏」)/Wikipediaより引用

江戸の火災現場といえばコレっすよね・・・(東映太秦映画村で再現された「め組の纏」)/Wikipediaより引用

目立つところで振り回すということは、これも町火消の活躍を誇る役目を持っていました。
町火消は「いろは四十八組」と言われる通りたくさんの組があったので、どこの組が現場にいるのかわかりやすくするため、纏の先にそれぞれの組独自の飾りをつけていたのです。
といっても大名火消のように華美なものではなく、形に工夫を凝らしていました。文字で説明するのは難しいのですが、ひし形をつなぎ合わせて立体的にしたものだとか、円を縦に二つ並べて数字の「8」のようにしたものなんかがありました。
羽織もそうですが、江戸時代のデザインセンスって結構スゴイですよね。

目立たなくてはいけないということは纏そのものも相当デカく、持って屋根の上に登る時点で相当の腕力を必要としました。そんなわけで「纏持ち」と呼ばれる担当者もまた力自慢の人気者だったそうです。
ヘタをすれば纏ごと燃えてしまうので、組と自分の名誉のために頑張っていたとか。命がかかってるという意味では合戦と同じですし、江戸のヒーロー扱いされていたのも頷けます。

いろは組とその纏。これぞ「江戸!」という雰囲気で素敵ですなぁ/Wikipediaより引用

いろは組とその纏。これぞ「江戸!」という雰囲気で素敵ですなぁ/Wikipediaより引用

 

「風が吹けば桶屋が儲かる」の語源だという説も

では野次馬……もとい一般人はどうだったかというと、もちろん日頃から火事への備えをしていました。というか命じられていました。

「町人は各々水桶を準備するように」

ということで、一家に一台ならぬ一家に一桶分、常に水を用意して“おけ”というお触れが出ていたのです。桶だけに……失礼しました。
ちなみにこれが「風が吹けば桶屋が儲かる」の語源だという説もあるそうです。よく知られているのは「風で土ぼこりが酷くなると目を病む人が増えて云々」のほうですが、「『風が吹くと火事が広まりやすいから、桶を買って水を用意しろ』とお上が言ったので、桶屋が儲かった」というほうが確かに合点は行きますよね。とんちも何もないですけど。

江戸の町中に設置されていた消防用の桶/Wikipediaより引用

江戸の町中に設置されていた消防用の桶/Wikipediaより引用

とはいえ一度火が広がってしまえば対策が難しいというのは現代も同じこと。ですからこうした工夫にも火事を激減させる効果はなく、その後も度々大きな被害をもたらしたことは皆さんご存知の通りです。
でも、もしかしたら記録に残っていないようなボヤなどは水桶や火消したちで対処できていたかもしれませんから、全くの無駄ではなかったと思いますけども。
日頃の備えと初期対応が大事なのは災害の基本ですものね。

 

長月 七紀・記

TOP画像:明暦の大火/Wikipediaより引用

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参考:火消し/Wikipedia NPO東京中央ネット 図説 大江戸の賑わい/河出書房新社

 

 




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