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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

明治の元勲・山県有朋のちょっとホッコリで意外な話「わしは一介の武弁」

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特に歴史には多い「あるある」ですが、評価する側の視点によってその見方が全く異なる人っていますよね。
敵国の軍人は攻められたほうからすると大悪人ですが、自国では英雄扱い……なんてのはそれこそ掃いて捨てるほどある事例でしょう。

ほとんどの場合やはり自国の偉大な人物は称えるものですが、日本ではどちらかというと減点法な評価をすることが多いためか、そういうことは少ないような気がします。
まして長短相半ばするような人だと……今日はそのタイプだったと思われるお一人のお話です。

大正十一年(1922年)の2月1日は、山県有朋が亡くなった日です。

松下村塾の出身・山縣有朋さん(1838年-1922年)/Wikipediaより引用

松下村塾の出身・山県有朋さん(1838年-1922年)/Wikipediaより引用

軍関係の逸話が多く、派閥政治を強めたためか、いわゆる「明治の元勲」の中ではあまり人気のない人ですね。まあそれも事実なんですが、今回は彼の別の面を主にお話ししていきたいと思います。
フツーに生涯を書くと暗記しなきゃいけないような単語の羅列でつまらんですし、他のサイトさんと丸っきり同じこと書いてもしょうがないですしおすし。

 

あいつが社会主義を研究するならいいんじゃないか 

じゃあ彼のどこがよかったかというと、「良いと思ったものは積極的に守っていた」と思われるところです。
証拠といえそうな話が二つあります。

一つは、とある学問の話。
山縣が権力の座についた頃、欧米では社会主義という概念が生まれました。
この言葉自体が現代の日本だといろいろな意味を持ちすぎていてややこしいのですが、あくまで明治天皇の下で強い国になろうとしていた当時の政府にとっては驚異的な思想と映りました。

そして「そんな学問はやめさせるべきだ!」という役人もいたのですが、山縣は「その学問はどこの大学の誰が研究しているのか?」と尋ねたそうです。
その役人はきちんと下調べをしていたらしく、「帝国大学(現在の東大)の建部という人物です」と答えました。すると山縣は「そうか、あいつならいいじゃないか」と言ったのだとか。

新しい学問を帝大という国の中枢で研究することはとても意義のあることですから、これは地味にいい仕事でした。
もしここで「ならやめてしまえ」ということになっていたら、日本は社会主義に関する理解が全く育たないまま、社会主義国家と対することになっていたでしょう。

政治家としても有能だった山縣有朋/Wikipediaより引用

政治家を務めたときの山県有朋/Wikipediaより引用

 

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和の建築様式・庭園美を愛し後世に残す 

もう一つは、建築に関する話です。
彼は茶道の心得があったためか、日本建築や日本庭園をこよなく愛していました。そしてあちこちに土地を買い、広大な邸宅と庭園を作らせています。

現代なら「それがどうした」ってなもんですが、当時の「西洋バンザイ!」な流れの中では珍しい趣味です。鹿鳴館を始めとして、ほとんどの公共施設やお偉いさんの私邸が擬洋風建築(日本の建築技術を使って洋風のデザインにした建物のこと)ばかりだった頃の話ですからね。

関東大震災や戦災で被害を受けたところも多いですが、今でも同じ場所でホテルや農場が経営されていたりします。有名どころでは東京都文京区のホテル椿山荘の土地は彼の屋敷・庭がありましたし、栃木県矢板市にある山県有朋記念館の敷地も、以前は山縣の農場でした。

政治家の道楽といえばそれまでですが、懐にお金を溜め込んで世の中に回さないよりはマシかと。

晩年を過ごした古稀庵(神奈川県小田原市)/Wikipediaより引用

晩年を過ごした古稀庵(神奈川県小田原市)/Wikipediaより引用

 

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昭和天皇も大山巌・山本権兵衛とともに賞賛

また、西洋化を推し進めるあまり、自らの文化をおろそかにしがちだった明治の政治家たちの中で、彼は「わしは一介の武弁」という言葉を度々口にしていたそうです。
武弁とは武士や武官という意味ですから、「自分は政治については素人である」と言っていたことになります。そう思っていたにもかかわらずきちんと役職を勤め上げたということは、彼が日本人としての責任や、あるいは他の何かを大切にしていたということになるのではないでしょうか。

それは軍に主張していた「捕まったら潔く死ぬ」ことだったかもしれませんし、また違うことかもしれません。多分、西洋至上主義だった他の重鎮達の中、そして彼らを信奉する一般人からはさぞ奇異に見えたことでしょう。
となると、国葬でありながら一般人の参列者がほとんどいなかったといわれるのも納得できる話です。

『またムチャクチャなヒイキしやがってwww』と思われた方もいらっしゃるでしょうが、欠点のない人間がいないように、良い点が皆無な人もいないんじゃないかと。

それに当時のご時勢、そんなに滅茶苦茶なことをやっていれば過激な人々によってクビ(物理)にされていてもおかしくはありません。
まったく美点がなければ、当時伊藤博文と並び称されたり、昭和天皇が大山巌・山本権兵衛とともに山縣を賞賛するようなことはなかったでしょう。

今は護国寺のお墓に眠っている/Wikipediaより引用

今は護国寺のお墓に眠っている/Wikipediaより引用

最近は「いやいや、当時の情勢でこの人は冷静だったでしょ」という感じで再評価の動きもあるようですので、また何年かしたらイメージがガラッと変わるかもしれません。

それでも人気者にはならなそうですけどねー。

無理やり戦国武将に例えるとすれば、「裏切らない松永久秀」あたりのポジションになるんじゃないかと思うので、コアな層には好かれるんじゃないかと。

長月 七紀・記

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参考:山縣有朋/Wikipedia

 

 




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