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その日、歴史が動いた 江戸時代 細川家

忠臣蔵の赤穂浪士47名 切腹までの1ヶ月間に最も礼を尽くしたのは細川家だった

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歴史に残る大事件でも、直前直後の事情が意外に知られていなかったりしますよね。
ピンポイントで暗記するだけでなく、流れも一緒に理解すると覚えやすくなることもあるのですが。私はそうでした。まあ、学校だと授業時間数的にそこまでやる余裕はないでしょうから仕方ないのかもしれません。

最近は大人が読み返すための教科書が人気ですけども、アレよりも資料集のほうが写真や図入りの上に前後事情や余談がわかりやすくてオススメです。歴史好きの入り口ってだいたいドラマ・小説・ゲームか、資料集のような気がするんですよね。
まあ前置きはともかく、本日は誰もが知っているあの事件の後日談をお届けします。

20130814忠臣蔵1-1

 

世間が味方し、なかなか処分が決まらず

元禄十六年(1703年)2月4日、赤穂浪士として知られる元赤穂藩の武士たち47人が切腹しました。
忠臣蔵=年末=切腹も年の内、と思っていらした方も多いかと思うのですが、実際のところ世間が彼らに味方していたこともあり、なかなか処分が決まらなかったので一ヶ月以上経ったこの日に腹を召すことになったのです。

とはいえこの人数ですから、一つところで順番にやっていたら日が暮れてしまいます。そもそも彼らは捕まった時点で四つの大名家に預けられていたので、そこでそのまま最期を迎えることになりました。

それまでの待遇もですが、どこの大名家に行ったかで切腹時の扱いもかなり違ったようです。
最も優れていたとされるのは、四家中一番の大身であった細川家でした。

織田、豊臣、徳川の各政権で重宝された名門一族・細川藤孝

織田、豊臣、徳川の各政権で重宝された名門一族・細川藤孝

 

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室町時代から続く名家はさすがに違う

細川家といえば、戦国のミスターチート・幽斎(過去記事:子育て以外はミスターパーフェクト細川幽斎(藤孝)誕生!【その日、歴史が動いた】)や、あらゆる意味でキレすぎる風流人・忠興(過去記事:「アレな伝説」戦国武将No.1 細川忠興ってどんだけ~?【その日、歴史が動いた】)の家。

それゆえアレなイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、忠興の子・忠利が非常にマトモな人だったので、ようやく良くも悪くも普通の家になったのです。

この頃の当主は綱利(つなとし)という人で、忠利の孫。幽斎から数えれば五代目にあたります。そろそろ時期的に戦国の気風も薄れ、あちこちの大名家で財布の紐やウエスト周りが弛んでくる頃合ですが、さすがに室町時代からの名家は違いました。

綱利は浪士たちの預かり先、しかもリーダーだった大石内蔵助良雄を含めた17人という最多人数を任せられることが決まると、到着が真夜中だったにもかかわらず、ずっと起きて待っていたといいます。

さらに罪人に対するとは思えない食事や部屋、風呂に嗜好品の世話までしてやり、大石については直々に会って話を聞くなど、彼らのやったことを賞するような行動をしました。

一応幕府に許可を取ってはいたものの、どれもヘタをすれば自らの命や細川家すら危ういほどの動きです。しかも助命嘆願だけでなくわざわざ山に神頼みに行くわ、「命をお助けくださるなら、我が家で召抱えたい」とまで申し出るわ、願掛けのため精進料理に切り替えるわとかなりの入れ込みようでした。

 

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 細川綱利が規格外だったのかもしれない

とはいえ彼も武士ですから、幕府から「切腹させよ」と命じられれば従わざるを得ません。
最後の情けか悪あがきか、「端役の者では彼らに礼を失する」として、介錯人(切腹の際止めを刺す役)に重臣や自分の小姓を当てるなど、心配りを見せました。

現代人からすると「いやいや最後まで動いてやれよ」という気がしなくもないですが、当時は再審とかないので仕方ありません。綱利も自分の家を守らなくてはいけませんから、最大限の配慮をすることで浪士達に礼を尽くしつつ、幕府への体裁も整えたのです。

ここで50万石もの大大名である細川家を潰してしまうと、後釜その他諸々の面倒なことを考えなくてはならないなど、幕府にとってもデメリットが大きかったというのもあるでしょうけどね。
そこまで考えてたとしたら、綱利もなかなかやりますなあ。

これを先に知ってしまうと他の三家がショボく見えてしまうのですが、それは綱利が規格外すぎただけのことなので、彼らが悪いわけではありません。

むしろ細川家が代々幕府の役に立ってきた家だったからこそ、お目こぼしをしてもらえたのでしょう。もし普段から幕府に反抗的だったり、さほど熱心にお勤めをしているようには見えない家だったら、これを機に浪士ごとぶっ潰されていたかもしれません。

 

ただ一人実際に腹を切って武士の魂を見せた間光風

他の三家の内訳は、久松松平家(家康の異父弟の血筋)、家康の従弟系統の水野家、そして毛利家……といっても本家ではなく、毛利秀元の家系のほうが預かり先を任されました。

大身の前田家や島津家、伊達家などが選ばれていないのはちょっと意外な気もしますが、もしかすると浪士の人気にかこつけて良からぬことを企みかねないとか思われていたのかもしれません。
一方で家康の親族の家系はまだしも、外様なのにこのような重要な役を任された細川家や毛利家の信頼されっぷりもうかがえますね。

この中で特筆すべきエピソードを残しているのが、毛利家に預けられた間光風(はざまみつかぜ)という人物です。武士よりも役者さんや文化人にありそうな綺麗な名前ですが、心意気は武士そのもの。
当時の切腹は既に形式化しており、実際に腹を切ることはほとんどありませんでした。あれほど忠義を貫いた浪士たちも、直接の死因はほとんどは介錯人によるものです。

しかし、光風はただ一人実際に腹を切り、介錯人が慌てて止めを刺したのだとか。
これまた一歩間違えると預かり先の不手際としてお咎めを受けるところですが、検視役が「見事」として褒めたため事なきを得たそうです。
確かに、本来の作法を守って罰されるいわれはないですものね。

人数の差はあれ、意外にも一人あたりの所要時間はあまり変わらなかったそうです。
計算上平均6分だったといわれています。どこの家も決められた作法をきちんと守ったからなのでしょうね。

 

浪士たちを称える碑を建てたのは、なんとイタリア大使 !

人生最後の6分間、浪士たちが何を考えたのかはわかりません。
命を捧げた主のことだったかもしれませんし、後に残される妻や子供のこと、赤穂藩のこと、あるいは「死にたくない」と思っていた人だっていたでしょう。決死の覚悟とはいえ、やはり人間ですからね。

東京都港区高輪の旧細川家下屋敷跡には「大石良雄外十六人忠烈の跡」、同じく港区三田の松平家中屋敷跡には旧浪士たちの忠義を称える碑が立っています。
後者については現在イタリア大使館になっており、碑も昭和十四年(1939年)に当時の駐日イタリア大使が建ててくれたのだとか。毎年2月4日に供養もしてくれているそうです。当時の大使が誰なのか具体的なお名前まではわからなかったのですが、ありがとうイタリア。

でも何でそんなところを外国の方にお貸ししたんでしょうね? 元が大名屋敷ですから、良い土地なのはまちがいないですけども。

その一方で、「浪士たちの遺品を預かった寺院がそれらを転売した」なんてイヤな話も残っているのですが……。仏罰当たれ生臭坊主ども。もう当たってるかもしれませんが。

こういうの、某鑑定団にでも出てきたらいいんですけどねえ。国宝でも個人の所有になっているものもありますので、いずれにせよきちんと保管していただきたいなあと思います。

長月 七紀・記

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参考:元禄赤穂事件の頁へようこそ! 間光風/wikipedia

 




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