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史上最大の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」 足利尊氏 vs 直義(ただよし)は毒殺で決着!?

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歴史+兄弟=内乱というのはもはやお約束ですよね。
だいたいの場合、当人同士も最初から仲が悪かったのに加え家臣が悪ノリしてケンカどころか戦争に……というパターンですが、例外もなくはありません。
室町幕府の初代将軍・尊氏とその弟は、その数少ない例外でした。

正平七年=観応三年(1352年)の2月26日は、足利尊氏の弟・直義(ただよし)が亡くなった日です。
知名度は高くありませんが、実は日本史上最大クラス(仮)の兄弟ゲンカをやった人でもあります。

従来は源頼朝と語られてきたこの肖像画、実は足利直義という説が浮上/wikipediaより引用

従来は源頼朝と語られてきたこの肖像画、実は足利直義という説が浮上/wikipediaより引用

 

気性の荒い兄・尊氏を弟・直義が支える構図だったが 

尊氏と直義は最初から仲が悪かったわけではありません。むしろ、源頼朝・義経兄弟や織田信長・信行兄弟と比べるととても仲良しでした。同じ母親から生まれて育ちましたし、鎌倉幕府打倒の際には、起伏の激しい尊氏を直義がよく支えて倒幕を成し遂げています。
それが何で大ゲンカになったのかというと、室町幕府の実権をめぐっての争いがきっかけでした。

尊氏は上記の通り感情の起伏が激しい質で、政治的なバランス感覚もやや不安があったため、直義がそれを補うような形で幕府の舵取りをしていました。いわば二頭政治で、当時も「両将軍」と称されていたようです。
尊氏が軍事を、直義が政務をという割り振りで、お互いの得意分野でもう一方の欠点を補うという理想的な状態でした。

また、尊氏は岩清水八幡宮に「直義が一生幸せに暮らせるようお守りください」(超訳)という願文を出しており、感謝の程と仲の良さがうかがえます。
うまくやれていればそのままでも良かったような気がしますが、これが面白くないのは他の重臣達、特に高師直とその愉快な仲間達でした。

一方こちらは高師直なのでは?と考えられている足利尊氏/wikipediaより引用

一方こちらの騎馬武者像、実は高師直なのでは?と考えられている足利尊氏。ややこしや・・・/wikipediaより引用

 

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直義が南朝につき「観応の擾乱」勃発! 

彼らが「二人とも将軍とかナイナイ」と言い出したところ、直義の家臣に「直義様は真面目に仕事やってんのにガタガタ抜かすな! 尊氏様に言い付けてやる!」と讒言され、幕府中枢を追われてしまったことから、雲行きが怪しくなっていきます。
当然そのままで済むはずがなく、高一派は武力をもって反抗。これ以上放置すれば大事になると判断したのか、直義はここで頭を丸めて幕府を去りました。
直義の仕事は、後に二代めの将軍となる義詮(過去記事:足利義詮の登場!って…えーと…誰…? 偉大なる父を持つ二代目のスペック考 【その日、歴史が動いた】)が引き継ぐことになります。

さらに、尊氏の息子・直冬が「ボクに冷たいパパなんて大っ嫌い! 反乱しちゃうんだから!!><」(超訳)と言い出し、実力行使に出てきます。
直冬は直義の養子になっていたので、義父のピンチに対しての怒りも含まれていたのでしょうね。
冷遇の理由は尊氏いわく「アイツはちょっと精神的に不安定だから」というものだったそうなのですが、お前がそれを言うのかとw

ここで直義は、兄と離別するばかりかなんと仇敵である南朝方についてしまいました。
「観応の擾乱(じょうらん)」というデカイ内戦の始まりです。

 

鎌倉の延福寺に幽閉され・・・数日後に不可解な・・・ 

直義はかつて南朝方のNo2というか後醍醐天皇の嫡子だった護良親王をコロさせてしまったことがあるので、南朝からすれば仇も仇。どう考えても普通手を組まない相手でした。
が、南朝方は既に楠木家など中核となる人材をほとんど失ってすっからかん状態だったので、なりふり構っていられなかったようです。護良親王は化けて出てもいい。ついでにお名前の正しい読み方教えてください(「もりよし」と「もりなが」の二説があるので)。

この辺からややこしくなってくるのですが、概ね北朝方=尊氏、南朝方=直義と考えていただければわかりやすくなるかと。当初は直義のほうが優勢で、こっちについた武士が師直たちを倒すほどでした。

しかし、尊氏が南朝に降るような形で一時休戦すると、今度は新たに「直義は不届き者だからブッコロすように^^」という命令が尊氏に下ります。

そして尊氏とその息子・義詮に挟撃されてしまった直義は、京都を脱して鎌倉へ向かいました。しかしそれも見破られ、兵と将とを取り上げられて丸腰同然になり、鎌倉の延福寺というお寺に幽閉されました。
さらにその数日後、なぜか突然不可解な死を遂げたのです。

 

太平記だけは「尊氏が直義を毒殺しました!」 

世間的には「急病」ということにされましたが、太平記だけは「尊氏が毒殺しました」と書いています。どこからどう見ても怪しさ爆発ですね。
そもそも京都から鎌倉まで逃げて兵を挙げた人が、死ぬ直前の病人であったはずはありません。

真相は今もはっきりしないままなのですが、尊氏は亡くなる直前「弟を従二位にしていただけませんか」と願い出ているので、贖罪のニオイもしますね。
そもそも当人同士が仲違いしたわけでもありませんし、願文や尊氏の性格からすれば、必要なことだとわかっていても相当辛かったでしょう。

初の武家政権を作るために自分の意思で弟達を切り捨てた頼朝や、そもそも両親共に同じ兄弟がいない家康と比べると、肉親関係については尊氏と直義が一番可哀相なのかもしれません。
まあ、こういうことに関して一番も何もないですけどね。

 

長月 七紀・記



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参考:足利直義/wikipedia

 

 

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