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その日、歴史が動いた 欧州

ショパンやズブロッカを産んだ国・ポーランド 日本人には馴染みの薄い混乱の歴史

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多分お互いにそうだと思うのですけれど、あまりニュースにならない国のことって、ほとんど知らないというかいわゆる「影が薄い」みたいな感じになりますよね。
でも、ちょっと調べてみると「実は○○の発祥の地でした」とか「××で有名なナントカさんの出身地でした」なんてことがあって面白かったりして。

本日はおそらく日本人にとってそんな国のひとつについてお話しましょう。

1333年(日本では鎌倉時代終了の年・元弘三年)、ポーランドの王様だったヴワディスワフ1世が亡くなりました。多分、ポーランドという国がどんなところかというイメージもない方が多いかと思うので、有名どころを並べるところから始めてみましょうか。

なかなか凛々しいお姿のヴワディスワフ1世さん/Wikipediaより引用

なかなか凛々しいお姿のヴワディスワフ1世さん/Wikipediaより引用

 

 ショパンやキュリー夫人にズブロッカ

まず有名人でいえば、音楽家のショパン、ノーベル化学賞を初めて受賞した女性化学者であるマリー・キュリー(過去記事:未踏の道を切り開いたリケ女の星☆キュリー夫人が誕生【その日、歴史が動いた】)の出身地です。第二次大戦中にはドイツに占領されていたため、例の収容所でも有名ですね。あまり喜べませんが。

もっと最近の話だと、1993年以来20年以上不況になったことがないそうです。なにそれうらやましい。

お酒が好きな方であれば、アルコール96%のウォッカ「スピリタス」や、桜餅っぽい香りがする「ズブロッカ」もおなじみでしょうかね。

地理的にはドイツの西側のお隣さんです。区分としては中欧扱いだったり東欧扱いだったりしますが、これは地域で見ると前者、冷戦時代に社会主義国の一員だったことから後者のイメージがついたからかと。

 

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11世紀には周辺国を従える大国の一つだったが・・・ 

では、次はヴワディスワフ1世の時代までのポーランドの歴史をざっくり見ていきましょう。

一言でまとめるとすれば、”国土のほとんど&隣接する国がだったため、古代から東西の強力な国々に翻弄されてきた”地域です。ものすごくテキトーに言うと、世界史上で何回も分割されたり滅びてるのもそのせいです。

が、手段はともかく人がよく出入りするということは、その分文化も発達しやすいということになります。最近、世界最古のチーズ製造施設の跡がポーランドで発見されたそうですので、乳製品を作る技術もあったのでしょう。

また、立憲君主主義の大原則「君臨すれども統治せず」という言葉はイギリスのイメージが強いと思うのですけれども、実は17世紀のポーランドのお偉いさんが生み出したものだったり、よくよく調べてみるとスゴイものをいろいろ残している国です。

8世紀頃には王朝ができており、966年には王様自らキリスト教に改宗してポーランド公国という国ができました。
そこから約60年後(1025年)にはときの教皇から王国と認められ、徐々に大きな国になっていきます。この頃は現在のポーランド・チェコ・スロバキアのほぼ全土+オーストリア・ハンガリー・ウクライナの一部、つまりドイツとロシアの間のほとんどを領土にしたこともあり、大国の一員でした。

 

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領土を七分割して国内大混乱 そのまま弱体化へ 

が、1138年にとある王様が領土を七つに分割して統治させるというお決まりの大失態をやらかし、どんどん国内でドンパチを起こしては分裂して弱体化します。ローマ帝国だって分割したせいで滅びた(超略)のになぜ悪いところを真似た。

さらに13世紀に入ると、モンゴルからの厄介なお客さんが来て国土は荒廃、地域によってはほぼ無人状態になってしまいます。幸いモンゴル軍は比較的早く去りましたが、戻った住民だけでは人手が足りず、ドイツ以西から開拓者を募りました。

これについては経済・文化面でのメリットもあったものの、今日まで残る民族紛争の一因ともなっています。移民政策失敗の一例ともいえますかね。
日本史で言えば、平安時代の後半に大きな国になり、鎌倉時代に国が分裂してボロボロになってしまったという感じでしょうか。
……というところで王様になったのがヴワディスワフ1世です。

 

農民主体の軍隊を率いてついに統一を果たす 

舌噛みそうな名前ですけど、あっちの言葉だから仕方ない。ついでに言えばこれより前の12世紀にも「ヴワディスワフ1世」がいたので実にややこしいですが、今回お話しするのは「ヴワディスワフ1世ウォキェテク」と呼ばれる14世紀ごろの人です。

この人は「短身王」という実に不名誉なあだ名をつけられました。多分小柄だったんでしょうね。以前もこの記事(過去記事:世界のアダ名がパネェっす 美男王に禿頭王、失地王と来て“遍在する蜘蛛”まで【その日、歴史が動いた】)でお話しましたが、ホントヨーロッパの人王様に対して変なあだ名つけすぎ。

まあそれはともかく、先王の暗殺や亡命を余儀なくされるなど苦難もありましたが、互いに引っ掻き回して滅茶苦茶になっていたポーランドを統一するため、ヴワディスワフ1世は頑張りました。
農民が主体だった自軍をよく指揮し、親族との争いに勝ってポーランド王位につきます。めでたい。

ときにはドイツ系移民の反乱に遭ったこともありましたが、ポーランド人たちから支持を得ていたので、支配権を奪われるようなことはありませんでした。日頃の行いってホント大事ですね。

が、ポーランド王位を巡って争った近所の王様がドイツ騎士団(北方十字軍の一つ。詳しくは過去記事:欧州での合戦は結局キリスト教が広がるだけなんじゃね? ザウレの戦い後も…【その日、歴史が動いた】)と手を組んで挟撃してきたので、腰を落ち着けるヒマもなく戦い続けます。

途中都市を奪われたこともありますが、最終的には”プウォフツェの戦い”というこれまた舌を噛みそうな戦いでポーランド側が勝ち、領土と王位を守ることができました。

逃避行中のヴワディスワフ1世

逃避行中のヴワディスワフ1世/Wikipediaより引用

 

王様もやっぱり体が資本なんすな・・・73歳で天寿を全う 

というわけで一言でいえば「さまざまな苦難の上でポーランドという国を固め直した」という人なのですが、領土だけでなく法制度でもそうでした。
ドイツ系と平行してポーランドに入ってきていた、ユダヤ人たちの権利を保障する法律を作っています。もちろん特別扱いではなく、「ポーランド人と同等の権威を認める」というものでした。
上記の通り、モンゴルに荒らされまくって人がいなくなったところに来てくれたのですから、そのくらいの保障はしないといかんというわけですね。

そして一生仕事に明け暮れたヴワディスワフ1世は、1333年に73歳の天寿を全うしました。
実は上記のプウォフツェの戦い、彼が亡くなるたった2年前のことだったりします。さすがに前線で指揮を取ったりはしていなかったでしょうが、王様が元気でないと軍の士気は落ちやすいですから、平素はかなり健康な人だったんでしょうね。

人生のほとんどが国内外との戦争であったことを考えると、「体が資本」ということを体現した王様ともいえそうです。

石像も残されたヴワディスワフ1世さん・・・/Wikipediaより引用

疲労に耐えてよく頑張った!/Wikipediaより引用

 

長月 七紀・記

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参考:ヴワディスワフ1世_(ポーランド王)/Wikipedia

 

 




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