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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

アンパン大好き山岡鉄舟は 敵味方から信頼されたイケメン武士だった

更新日:

戦国時代や幕末は、日本史の中でもファンの多い時代ですよね。
理由はいろいろあると思いますが、その一つには「キャラクターが豊富である」ということが挙げられると思います。

一口に戦国武将といっても、知将もいれば猛将もいます。同じように幕末の人々も、単に佐幕派・倒幕派・その他という大きなカテゴリだけで人の性格や考え方までは決まりませんから、個々に見ていくことになり、結果、魅力的な人物を見つけやすいということになるのではないでしょうか。
本日はそんな幕末の人物の中から、エピソードに溢れすぎな人物をご紹介しましょう。

明治元年(1868年)3月9日、山岡鉄舟(てっしゅう)という幕府の直臣の一人が西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を取り付けました。

幕末の人物にままあることで、彼の写真が何枚か残っているのですが、真正面から写っているものがあまりないようです。俗に言う「斜め45度」というやつで、これがまあどの年齢でもイケメンだこと。

今のところ彼の知名度はあまり高くありませんが、この写真と共に大々的に紹介されれば、きっと人気が出る人なんじゃないかなと思います。
まあ顔の話はそこまでにしておいて、上記の会見を含めた鉄舟の生涯を追いかけてみましょう。

イケメン幕末志士・山岡鉄舟さんの登場!/Wikipediaより引用

イケメン幕末志士・山岡鉄舟さんの登場!/Wikipediaより引用

 

母方の先祖は剣聖と呼ばれる塚原卜伝!?

彼はあまり身分の高くない武士の家に生まれましたが、母方の先祖が剣聖・塚原卜伝ということもあってか、幼い頃から剣の道に励んでいたようです。二つの流派を学び、成長した後はその腕前を買われ、講武所(幕府運営の道場のようなもの)の世話役にも任じられました。

また、書道の腕前も優れていて、15歳のときに号をもらっています。身分に見合わないほどの文武両道ぶりといっていいでしょうね。

そして十四代将軍・家茂が上洛することが決まると、その護衛隊として作られた「浪士組」という組織の取締役に任じられます。鉄舟の剣の腕が広く知られていた証拠ですね。
その代わり交友関係もバレていたようで、仲間と共に「尊王攘夷しようぜ!!」という会を作っていたことから「お前ちょっと引っ込んでろ」とも言われて謹慎することにもなってしまったのですが。

しばらくしてまた公に出歩けるようになると、また幕府の重役を任されることになりました。官軍への交渉役として選ばれたのです。

 

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徳川を背負い西郷隆盛との交渉に挑む 

この間に戊辰戦争が始まっており、既に幕府は朝敵扱いになっています。つまり、慶喜や幕臣たちにとっては生きるか死ぬかの大博打でした。
その命運を決めるといっても過言ではない仕事を任されたのですから、謹慎させられたことがあったとはいえ、信頼は変わりなかったのでしょうね。元々別の人がやる予定だったのを代わって、ということだったそうですし。

この重大な役目を任された鉄舟は、駿府に駐留していた西郷の元を訪れます。
そして「慶喜は朝廷に従う意思があり、既に江戸城を出て寛永寺で謹慎している」「勝海舟に全権を委ねている」という江戸の状況を伝えた上で、朝廷への仲介を交渉しました。

これに対し、西郷からの返答はなかなかに厳しいものでした。
「軍艦を含めた武器・兵器を全て官軍に差し出すこと」
「江戸城を明け渡し、兵も城から出すこと」
「慶喜は岡山藩へ行くこと」

このうち、鉄舟は最後の条件だけは頑なに拒みます。

軍服姿の西郷隆盛さん/Wikipediaより引用

軍服姿の西郷隆盛さん/Wikipediaより引用

 

「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」 

岡山藩はこの直前まで慶喜の弟・茂政が藩主をやっていたのですが、戊辰戦争後に隠居して池田章政という人が藩主になっていました。そして代替わりと共に倒幕の意志を明らかにしたため、鉄舟としては「弟君ならともかく、いきなり鞍替えしたような藩に上様を渡すわけには行かない」と考えたのでしょう。

もちろん西郷はムッとしますが、鉄舟が「もし立場が逆で、島津公に同じことをせよと言われたら、貴方は納得できるか」と言うと、「もっともなことだ」と言ってこの条件を取り消したとか。
先日の妙林尼の話(過去記事:九州の女丈夫・吉岡妙林尼がスゲェ! 島津軍を跳ね返したしたたかな策とは? 【その日、歴史が動いた】)でもそうですけども、交渉ごとに対する薩摩の人の対応はカラっとしていて気分が良いですね。お国柄なんでしょうか。

ちなみにこのとき鉄舟は刀を持てないほど生活が苦しかったらしく、知人に大小二振りを借りたのだそうです。
それでいながら「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!!」と名乗りつつ堂々と会見場まで行ったというのですから、胆の大きさや幕臣としての誇りがうかがえます。
これは個人的な好みですが、やっぱり武士は堂々と名乗ってナンボですよねえ。戦では奇襲その他のために名乗らないことも多いですし、それはそれで良いですけれど。

 

西郷の頼みで明治天皇の侍従となる 

そんなわけで、鉄舟は武装解除と引き換えに江戸城では戦闘をしないという約束を取り付けるという大功を挙げることができました。

その後は徳川本家の跡を継いだ家達(いえさと・篤姫が孫のように教育した人)のお供をして駿府に行ったりもしましたが、廃藩置県が行われた後、明治政府へ。翌年には西郷の頼みで明治天皇の侍従にもなっています。

明治天皇との関係は良好だったようで、酔って「相撲を取ろう」と言い出した天皇を諌めたり、皇居が火事になったときにはいち早く駆けつけたりと、主が代わっても忠節ぶりを示すエピソードが伝えられています。

上記の「慶喜を岡山へ」というのは朝命だったので、ある意味では「以前堂々と逆らった奴を近くに仕えさせた」ことになるわけですが、そういう相手とおふざけを仕掛けられる程度に近しかったというのはなかなかスゴイ話ですね。
明治天皇の大らかさというか、「良いものは良い」というスタンスがうかがえる気がします。

晩年の山岡鉄舟/Wikipediaより引用

晩年の山岡鉄舟/Wikipediaより引用

 

アンパンだけじゃない! 味付け海苔も! 

実は山岡鉄舟は、以前当コーナーでもちょっとだけ出てきています。これです→過去記事:明治天皇に献上されて 4月4日はあんぱん記念日 【その日、歴史が動いた】)。

当人も木村屋のあんぱんが大好物だったらしく、毎日食べていたとか。木村屋の看板も揮毫したそうですから、余程好きだったんでしょうね。現代なら糖尿病の懸念大ですが、彼の死因は胃がんだったので大丈夫?だったようです。

他にも「明治天皇が京都に行ったとき、手土産を相談されて知り合いの海苔屋に話を通したところ、味付け海苔が生まれた」など、何故か食べ物に関するエピソードが多かったりします。
天皇や皇族の口に入るものに意見を出せたということになりますから、ここからも信頼のほどがわかります。

ゴマをすったわけでもないのに新旧の主から信頼厚く、自分の道を貫いた人物と見ると、大いに学ぶところがある人の一人ではないでしょうか。
もちろん本人の優秀さあってこそのものですけれどね。「目標は高いほうがいい(超略)」って毛利元就も言ってましたしおすし。

山岡鉄舟像

岐阜県高山市にある山岡鉄舟像/Wikipediaより引用

 

 

長月 七紀・記



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参考:山岡鉄舟/Wikipedia

 

 

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