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参勤交代や寛永通宝で幕府を安定させた土井利勝は… 「やっぱり家康の子じゃね?」

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「エライ人の隠し子」だとか、「実は別人と入れ替わってました」とか、あまり表に出てこない類の話って面白いですよね。下世話といえば下世話ですが、人気があるからこそいろいろな説や創作の元ネタになったりもして。
しかし、言われる当人としてはたまったものではありません。耳に入れば当然不快でしかなく、はっきり「そういうことを言わないでほしい」と示した人もいます。

元亀四年(1573年)3月18日に生まれた土井利勝です。

この人の話になるとたいてい「ああ、家康の隠し子ね」という流れになってしまうので、優秀であるにもかかわらずあまり正当な評価がされていないような気がします。
そこで今回は、彼がどんなことをやった人なのかを中心に見ていきましょう。

ワシの隠し子?ムフフのフ/wikipediaより引用

ワシの隠し子?ムフフのフ/wikipediaより引用

 

家康母方のイトコながら歳は30も離れており…

そもそも利勝は、家康の従弟です。
家康の母・於大の方の兄である、水野信元という人の子供でした。つまり、家康と似ていても別段おかしなことではありません。歳が離れているので、従兄弟同士というイメージもあまりないですけどね。
……となると、信元と於大の方がものすごく似ていた可能性が微レ存どころじゃない……?

まあそれはさておき、その信元が武田と通じた疑いで信長ににらまれ、家康は伯父を処分せざるを得なくなりました。
しかし利勝は一命を助けられるばかりか、家康の命で徳川家臣・土井利昌の養子に入っています。普通こういう時って息子も処分もしくはお寺に入れるのがセオリーですから、この辺はアヤシイといえばアヤシイですね。

ついでに、このあたりから家康は利勝を別格扱いし始めます。
鷹狩りに連れて行ったり、6歳しか歳の変わらない秀忠の傅役に任じられたり、「子供だから甘くしたんだよ」と言われても仕方のない扱いをされるようになりました。
家康は実の息子を軒並みひいきしていたわけではないですから、それもどうよという気がしますけどね。どちらかといえば、「顔が気に入った」とか「何か素質をうかがわせる出来事があった」のではないでしょうか。

ひでやす と ただてる が うらやましそうに こっちを みている!

松平忠輝と共に家康からのおぼえがよくなかった結城秀康/Wikipediaより引用

松平忠輝と共に家康からのおぼえがよくなかった結城秀康/Wikipediaより引用

 

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陰口が噂を呼び「やっぱり家康の子じゃね?」 

利勝は家康の期待によく応えたようで、関が原でも秀忠隊につけられています。
例の大遅刻の現場に居合わせたわけですから当然戦功もほとんどないのですが、なぜか500石加増されました。お駄賃ですかね。
その後も下総・小見川藩主に任じられたのを皮切りに、どんどん所領を増やされていきます。

とはいえ、利勝はそれにふさわしい働き方もしていました。
この頃になるとほとんど戦もないので、その功績は概ね事務処理やいざこざの仲介など地味なものです。

しかしときは、戦国の気風が根強く残る江戸時代初期。そうした仕事が過小評価されたのと同時に、「利勝は家康の子供だから特別扱いされているに違いない」という考え方をする人が一定数いてもおかしくはありません。
利勝自身は落胤扱いされるのを毛嫌いしていたといいますから、面と向かって言う人はそうそういなかったでしょうけどね。しかし、そうなると余計陰口を叩く人は増えるものですから、良かったやら悪かったやら。

 

家光が三代将軍になった頃には所領14万石超え 

上述の通り利勝は秀忠よりも年上です。

秀忠がその重責からか早く体調を崩していたため、利勝は家光の傅役にも任じられました。将軍二人の傅役を任された人というのもおそらく利勝くらいのものでしょうね。
やがて家康の代からの重臣・本田正純が諸々のポカを重ねて失脚すると、利勝は名実共に幕閣の筆頭になります。家光が将軍位についたときには14万石超の所領も持っており、もはやその権勢は揺るぎないものになっていました。

元々、武家諸法度内にはなかった参勤交代を定着させたり、寛永通宝を作って貨幣制度を安定させたのも利勝です。江戸時代の基盤を作ったといっても過言ではないわけですね。
そりゃ幼少からの特別扱いに加えてこの出世振りでは、「家康の息子だから」って言われるのも仕方ないですわな。

しかし、利勝はただ地位に胡坐をかいたり威張りくさるような人ではありませんでした。
大変実直で、見掛け倒しやごまかしを嫌ったといわれています。それを示すエピソードとして、家光時代のこんな話があります。

戦国大好き家光さん/Wikipediaより引用

戦国大好き家光さん/Wikipediaより引用

 

政宗に一杯くわせて(飲ませて)、酔い潰す 

あるとき家光が徳川家の菩提寺・上野増上寺に行ったとき、お寺の壁に一部壊れているところがあるのを見つけました。家光は”知恵伊豆”こと松平信綱(過去記事:人生成功の知恵はきちんとした計画? 「知恵伊豆」松平信綱誕生【その日、歴史が動いた】)に修繕を命じますが、構造上そこは修理するのが難しいということがわかります。

そこで信綱はちょっとした細工で修繕したように見せようとしたのですが、利勝は「そのようなごまかしは姑息である。できないならば正直にそう報告せよ!」と信綱を叱りつけたのだとか。年長かつ立場も上ながら、こういう叱り方はなかなかできるものではありませんよね。

また、将軍の付き添いであちこちに出かけることもよくあったらしく、伊達政宗の屋敷を訪れた際には酔って悪ふざけをしだした政宗に一杯くわせて(飲ませて)、酔い潰してその場を丸く治めたとか。
ちなみにそのとき、同僚の酒井忠世は政宗に膝枕を強要されて困り果てていました。利勝さんパネエ。
そういうユーモアもあったからこそ、政敵も少なかったんでしょうね。

性格や思考までそっくりだったらぐうの音も出ませんが、こういうところを見ると個人的にはやっぱり落胤じゃないんじゃないかなーと思います。
最近は落胤説のほうが有力視されているようですけども。今後はっきりわかるといいですね。

ちなみに膝枕をした独眼竜の無礼は、家光も「政宗なら仕方がない」の一言で笑って済ませたそうです。これはひどい。

結局、最後はこの人が全部持っていくのね…/(絵・富永商太)

結局、最後はこの人が全部持っていくのね…/(絵・富永商太)

 

長月 七紀・記

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参考&TOP画像:土井利勝/Wikipedia

 

 



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