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その日、歴史が動いた 寺社・風習

弘法大師空海~日本密教の祖にして至高の文化人、その生涯を辿ってみる

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日本に限ったことではないのかもしれませんが、あまりに偉大な人物だからといってあまり万能視するのもよくないですよね。
人間である以上は得手不得手も限界もあるわけで、物理的なことや時間の都合を考えればできないことも多いでしょう。
本日は日本におけるその一例であろう人のお話です。

承和二年(835年)3月21日は、弘法大師こと空海が62歳で亡くなった日です。
高野山では「亡くなったのではなく今も入定している」としていますが、そのあたりの理由は後述しますね。
おそらく日本人であれば誰もが知っている方ですので、今更という気もしますが……いつも通り、生涯をたどるところから始めましょう。

空海の肖像画/Wikipediaより引用

空海の肖像画/Wikipediaより引用

 

讃岐の郡司の家に生まれ若くして京へ

空海は讃岐(現・香川県)の郡司の家に生まれました。郡司とは地方の役人のことで、元々それなりの身分があったことになります。そのおかげか、早いうちに京へ出ることができ、母方の親戚から論語他儒学を教わるなど、比較的恵まれた環境にいました。
が、世俗の学問に限界を感じた若き日の空海は、同時に信仰心も高め、山に入って修行をしながら勉学に励んでいたといわれています。

このあたりから遣唐使の一員に選ばれるまでの時期については、あまり記録がなくはっきりしていません。
実は「空海」と名乗ったきっかけについても明確な理由がわかっていなかったりします。一説には、御厨人窟(みくろど)という海蝕洞(波が崖をえぐって作られた洞窟)の中で修行をしていたところ悟りを開くことができ、そのとき見えたのが海と空だけだったことから、とされていますが、はてさて。

仏教用語の「空(くう)」だと「我のないこと」や「実体のないこと」という意味にもなりますし、複数の意味があるかもしれませんね。

善通寺西院の弘法大師/Wikipediaより引用

善通寺西院の弘法大師/Wikipediaより引用

 

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渡航前からその名は知れていたのかも

経緯はともかく、30歳のとき空海は遣唐使に随行する留学層の一員として選ばれました。
他には既に一定の地位を築いていた最澄や、入唐後日本人唯一の「三蔵法師」になった霊仙(りょうせん)といった高僧がいたため、なぜこのときまで無名だった空海が選ばれたのか、これまた謎が謎を呼んでいます。
しかし、無事に海を渡って大陸に行った空海が、各所の僧に認められていろいろな文物や学問を持ち帰ったことは事実ですから、渡航前から何がしかのツテで「空海という優れた僧がいる」ということは知られていたのかもしれません。

空海が持ち帰ったものは、経典や仏具などはもちろん、土木技術や薬学、文学など極めて多岐に渡ります。
これは当人も満足していたようで、帰国時の「虚しく往きて実ちて帰る」という発言からも伺えます。

しかし、本来は20年唐にいなければならないところを、自己判断によってたった2年で切り上げてきてしまったため、帰国しても「すぐには京に来ないように」と言われてしまったのですが…。高僧らしくないうっかりぶりですが、それだけ唐での2年間が実り多いものだったと思ったのでしょうね。

上海万博で復元された遣唐使船/Wikipediaより引用

上海万博で復元された遣唐使船/Wikipediaより引用

 

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祈祷に執筆、お寺の創立 さらには治水工事など

そんなわけで九州・大宰府周辺でしばらく過ごすことになった空海でしたが、もちろんただ帰京の許可を待っていたわけではなく、ここでも仏の道に励みました。個人の法要を引き受けたりしていたそうで、お経を上げてもらった方はさぞかし感謝したでしょうねえ。
当時の航海技術からして、大陸に渡って生きて帰ってきたというだけでも尊崇の目で見られたでしょうし。

さて、数年して京の都に入れた空海は、持ち帰ってきたものを日本の衆生に役立てるべく、八面六臂の活躍をします。
朝廷の政争に際しては祈祷をし、唐で学んだ文化については書き表し、高野山を賜っては金剛峰寺の元を作り、故郷・讃岐では治水工事を行うなど、腰を落ち着けた日などあったのだろうかと思うほどの仕事ぶりでした。

また、京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という舌を噛みそうな名前の学校を作っています。これは庶民も入れる学校として極めて画期的なところだったのですが、空海の死後10年ほどで運営が難しくなり、売却されてしまったとか……。
空海の「庶民にも学問を」という理念だけは、現在の種智院大学や高野山大学に引き継がれていますけどね。

 

生きながら仏となり、今も修行を続けている

そして帰国から28年後、働きづめだった空海は、高野山奥の院で仏の世界に旅立ちました。
同時代の記録では「荼毘にされた」と書かれているのですが、何故か100年ほどしてから「空海は生きながら仏となり、現在も修行を続けている」といった意味合いの記述が表れ始めます。

現在の高野山でも後者の説をとっていて、一日に二度食事が運ばれ、毎年3月21日には衣服を交換するのだとか。
ということは当然お世話役の人がいるわけですが、彼らはこのことに関して絶対に口外しないため、事実かどうかを確かめる術もなく、一般的には謎のままになっています。
多分この先も世間に明らかにされることはないでしょうね。

そんなわけで帰国後のバリバリ仕事をしていた時期以外、空海についてはわからないことのほうが多いのですが、その働きぶりからか「空海が発祥です」といわれているものが全国にわんさかあります。
一番多いのは「この湧き水や温泉の開祖は空海だ」という話ですが、空海が活動していたのはほとんど西日本なので、東日本でのそういった話については……^^;

「生き仏になった後、全国行脚に出ている」という説もあるので、それが本当であればありえない話ではないですけどね。
または、「空海より後の時代の高野聖たちが湧き水や温泉を見つけた際、空海の名を借りた」という説もあります。こちらのほうが現実的ではありますね。もしくは、「高野山のお坊さんが見つけてくれた」→「高野山といえば空海」→「空海が見つけました」なんて伝言ゲームみたいになっていたのかもしれません。

遍照院内に建つ弘法大師像/Wikipediaより引用

遍照院内に建つ弘法大師像/Wikipediaより引用

 

今年は金剛峯寺の元となった道場が1200周年! 

他にも「讃岐うどんの元は空海が持ち帰ってきた唐菓子である」とか、「いろは歌は空海が書いたものだ」とか、空海がやった・作ったとされるものは枚挙に暇がありません。
いろは歌は空海の時代の文法ではなかったり、原型とされる唐菓子にはあんこが入っていたりと、いろいろツッコミどころもあるのですけどね。

上記の通り何でもできたというかやってのけたお方ですから、各方面に大きな影響を及ぼしたということが拡大解釈されてこうなったのでしょう。ホントに記録以上のことをやってたら、いくら高僧といえど体が持たないでしょうし。
それとも仏様のご加護があれば疲労も何とかなるんでしょうか。何そのロボコップ、こわ……待ってやめて仏罰当てないでください。

ちなみに、今年は空海が金剛峰寺の元になった道場を開いて1200年目にあたるそうで、ご本尊など貴重なものの御開帳がされるようです。

詳しくは金剛峰寺のホームページをご覧ください。スクロールしていくとお経が流れる(!)ので、音量設定を小さめにしてから開いたほうがいいかもしれません。

高野山真言宗-総本山金剛峯寺公式サイト

高野山真言宗-総本山金剛峯寺公式サイト

 

長月 七紀・記

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参考:高野山金剛峯寺公式サイト 空海/Wikipedia

 

 




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