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「三国志・呉の孫権」曹操や劉備と競い合った英雄 晩年は耄碌が酷くなり…

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歳を取ると、若い頃に比べて色々な面で衰えを感じることがありますよね。目がかすむとか、お酒に弱くなってくるとか、運動が苦手になってきたりとか。

そういった体の変化は気付きやすいものですが、内面の変化はなかなか自覚できないなんてこともよくあります。誰かから「穏やかになったね」とか「そんなすぐ怒らないでよw」なんて言われて、やっと気付いたという人も多いのではないでしょうか。

その程度であればいいのですが、他人にとんでもない迷惑をかけるレベルの変化が起きると……なんて例も歴史上には度々あります。
本日はその一つ、お隣の国の有名な時代のお話。252年の4月16日、三国時代の「三国」の一つ、呉の皇帝・孫権が亡くなりました。

孫権/Wikipediaより引用

孫権/Wikipediaより引用

 

長身で胴長短足、赤いひげと角ばった顔で大きな口

孫権とは、三国志をモチーフとしたマンガや小説、ゲームでお馴染みの人ですね。
「長身で胴長短足、赤いひげと角ばった顔で大きな口をしていた」という、やけに想像しやすい外見をしていたといわれていますので、某無双シリーズのデザインはかなり忠実なようです。あのゲームやたらと皆デカイですけども。

まあ要するに体格の良い人だったわけですが、それは見掛け倒しではなく、若いときから護衛なしで反乱の相次ぐ地域に滞在したり、虎狩りに出かけるなど剛毅な気質だったとか。

が、やんちゃをしていられたのも父と兄が亡くなるまで。相次いで二人の肉親を亡くした孫権は、19歳で家を継いで臣下を率いる立場になります。
彼自身は類稀な才能を持つというタイプではありませんでしたが、残ってくれた家臣に支えられながら、自分でも新たな人材を積極的に採用して地盤を固めました。

そして数年後、めでたく父の仇を討ちますが、直後に北の雄・曹操から「今度数十万人連れてそっちに行くからよろしく☆」(超訳)という手紙が届きます。要するに「服従しないんなら数十万の兵で踏み潰すぞゴルァ」というわけです。
まだ足元が固まったばかりの孫権たちと違い、曹操は既に北方諸侯を征伐してかなりの勢力を持っていました。彼我の差は歴然としており、家臣たちは皆「降伏して生き残るべきでは?」と考えます。

 

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赤壁では手を組むも、後に関羽を謀殺する 

ここでやってきたのが、もう一人の三国志の主役・劉備の使者としてやってきた諸葛亮でした。彼は孫権を説得し、劉備と共に曹操へ対抗するため同盟を提案します。
迷った末に孫権は諸葛亮の意見を容れて、曹操と戦うことを決定。そうです、有名な「赤壁の戦い」の幕開けです。

このとき孫権は「なおもゴネる家臣たちの前で机を一刀両断し、決意の程を示した」といわれていますね。でもこれ失敗したら相当恥ずかしいぞ。

赤壁の戦いに関しては史実よりも三国志演義(小説)による脚色のほうが有名ですので省略しますが、何やかんやあって孫権と劉備は曹操の南下を防ぐことができ、しばらくの間二人は同盟関係を続けました。

が、両者の勢力圏の中間にあった荊州という土地を巡っていさかいが勃発。テンプレですね。

一度和解したものの、孫権は曹操に誘われて劉備を裏切り、義兄弟の一人である関羽を計略にかけて捕らえ、処刑しました。裏切りは乱世の習いとはいえこれはひどい。
当然ながら怒った劉備は戦を仕掛けてきます。そして孫権も応じて見事撃退した後、和睦を申し出て一応この件は落ち着きました。

この戦に来る途中で、劉備のもう一人の義兄弟・張飛も日頃の行いのせいで部下に裏切られて殺されており、劉備も和睦の直後に亡くなり、蜀の人材は目減りしていく一方になりました。
三国の中で一番先に滅びたのは蜀なのですけれども、その遠因を作ったのは孫権及び呉といえないこともありませんね。

三国志地図/Wikipediaより引用

三国志地図/Wikipediaより引用

 

魏では曹丕が跡を継ぎ、孫権は呉王として…三国が成立 

この間、魏でも世代交代がありました。

曹操の跡を曹丕が継ぎ、孫権は形だけ臣従して呉王として認められ、これでいわゆる魏・呉・蜀の三カ国ができ、「三国鼎立」時代にはいります。
現在三国志の話をするときはもっと前、後漢王朝が危うくなった黄巾の乱あたりからを指すことが多いですが、厳密に三国になったのはこのタイミングから蜀が滅びるまでの40年ほどのことです。意外と短いですね。
まあ、歴史区分は後世の人が決めることなのであいまいなのはよくある話ですけども。

日本でいえば、「鎌倉幕府ができたのは1192年じゃない。実際には1185年頃からだった」っていうのとほぼ感じでしょうか。
個人的にはこのタイミングだとまだ壇ノ浦の戦いが終わったばかりで、義経や奥州藤原氏とのゴタゴタも片付いていないのでどうかと思うんですが、最近の教科書だとそうなってるそうで。
まあそれはともかく、中国の話に戻りましょう。

上記の通り、同盟に忠実なのか腹に一物持ってるのを隠そうともしていないのかサッパリな孫権でしたが、その後は大きな裏切りをすることなく、蜀と協調して魏を攻めることも何回かありました。
とはいえ、それぞれの支配圏がほぼ確定したことによって「あれ? 曹丕に頭下げる必要なくね?」と気付き、自ら呉の皇帝を名乗っているので、これも裏切りといえば裏切りですかね。
その前から戦をしているので、特にこの宣言による魏や蜀との関係悪化ということにはならなかったようですが。

孫権/Wikipediaより引用

孫権/Wikipediaより引用

 

50代に入ってから耄碌がひどくなり晩年を汚しまくる

むしろ穏やかでいられなかったのは内政のほうで、50代に入ったあたりから耄碌ぶりが目立ってきます。
アテにならない人物にそそのかされて家臣に反乱を起こされたり、家督相続の順序をひっくり返して10年間もの内乱を招いたり、「どうしてこうなった」としか言いようのない晩年を過ごしました。
元から理性や計算より感情で物事を決断しやすい質ではありましたが、ここまでくるともう国の主としては失格です。

とはいえブッコロされることはなく、一応天寿を全うすることができました。中国語に「畳の上で大往生」的な言い回しはあるんでしょうかね。もしご存知の方がいらしたらぜひ教えてください。

しかし、孫権が亡くなった後、呉は幼帝と暴君の出現によって国力を落とし、魏に替わって台頭してきた晋という国によって滅亡します。孫権の死から約三十年後のことでした。
呉に見切りをつけて晋へ降伏する者も多く、あっけない最後だったようです。

いつの時代でもどこの国でもそうですが、何でエラくなったり年を取ると後のことを考えなくなるんでしょうね。そういう立ち位置の人ほど、自分が死んだ後のことを考えないといけないはずなんですが。

「麒麟も老いれば駄馬にも劣る」とはいえ、歩みが鈍くなって困るのは自身だけにしてほしいものです。

長月 七紀・記



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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9

 

 

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