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織田家 その日、歴史が動いた 寺社

お市はなぜ柴田勝家と共に死んだのか? 年の差25歳……そこにあるのは愛、それとも

更新日:

平家物語の序文を引くでもなく、興る者がいれば滅びる者もいるのが世の習いです。
特に歴史=政治史・戦史と捉えることが多いですから、次から次へそういう話がありますよね。滅んだものに美学を見出すのは日本人ならではの感覚でしょうけども。
本日はその一つ、揃って自害することを選んだ夫婦のお話です。
天正十一年(1583年)4月24日、賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家が、妻であるお市の方と共に自害しました。
そしてお市の娘達、いわゆる浅井三姉妹が秀吉の下へ行きました……というところでだいたいのドラマや小説は次の話になってしまいますけれども、ここでは二人の自害前後のことをもう少し考えてみたいと思います。

柴田勝家像(Wikipediaより)

賤ヶ岳の戦いに敗れた後、勝家は本拠・北ノ庄城へ帰ってきました。現在は福井城ですね。
しかし、賤ヶ岳とこの城は現在の道路で110km程度しか離れていなかったため、すぐに秀吉がやってきて包囲戦が始まります。
先鋒は突如戦線を離脱した後、秀吉方についていた前田利家。他にも黒田官兵衛など賤ヶ岳とその付近で功を挙げた武将たちがたくさんいました。
24日の明け方に秀吉方が本丸にまで押し入り、夕方に勝家とお市、そして、最後まで残った数十人の配下が自害したといわれています。
お市の方は織田信長の死後に行われた清洲会議で、「勝家殿に嫁いでいただこう」ということになり、北ノ庄城へ移っていました。
「秀吉が勝家を丸め込むためにそう仕向けた」ともいわれていますが、信長というあらゆる意味で最強の庇護者がいなくなってしまったのですから、筆頭家老の位置にあった勝家の元へというのはおかしな話でもないですよね。
信長の息子達はいろいろ問題があって叔母の庇護どころではありませんでしたし、ひとまず当主になった三法師(信長の孫で後に織田秀信)はまだ二歳でしたし。
「勝家がお市に惚れてるのを知ってたから」と見る向きもありますが……勝家とお市は25歳も離れてるんですよね。いくら年の差婚が当たり前の時代とはいえ、それはどうかなあと個人的には思います。

お市の方(Wikipediaより)

しかも結婚していたのは1年ほどですし、信長死後のドタバタで勝家はとんでもなく忙しかったわけですから、夫婦らしく過ごしたことはほとんどなかったでしょう。
これらを総合して考えると、歳の離れた妻というよりもどちらかといえば「亡くなった主君の妹」、もしくは「義理の娘」といった感じで大切にしていたんじゃないかなあという気がします。
はるか年下とはいえお市は三人の娘がいる母でもありますし。
また、勝家は北ノ庄城へ帰ってから一度、お市に逃げるよう勧めたといわれています。
お市自身が「二度も逃げたくない」といって拒否、勝家と自害する道を選んだのですが、これも「愛する女性に生き延びてほしい」というより「まだ若いし、これからが大事な娘たちもいるから、母親がいなければダメだ」と思ったんじゃないでしょうか。

お市が自害を選んだ理由としては「秀吉が嫌いだったから」ともいわれていますけれど、娘達を直接秀吉に渡したあたり、毛嫌いということもなかったんじゃないですかねえ。本当に大嫌いだったとしたら、何としてでも秀吉ではなく違う武将の下へ落ち延びさせようとしたんじゃないでしょうか。
信長存命中から浮気性だった秀吉ですから、女癖の悪さがお市の耳に届いていた可能性もありますし。

伝えられているお市の言動から「勝家や秀吉に対してどう思っていたか」をうかがい知ることはできないのですけどね。
ですが、辞世の句で同じ「ほととぎす」を入れていることからして、少なくとも単なる政略結婚だからとか、「秀吉が嫌いだから勝家と仕方なく運命を共にした」というわけではない気がするんですよねえ。
二人の辞世はこのような句になっています。
いつも通りの意訳とともにどうぞ。

お市辞世
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」
(意訳)「そうでなくても夏の夜は短いのに、ほととぎすが今生の別れを急かすようですね」

勝家辞世
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
(意訳)「夏の夜の夢のように儚い人生だった。山のほととぎすよ、せめて我が名を雲の上へ語り伝えてくれまいか」
辞世に返歌をする、というのは度々ありますが、同じ単語を入れるというのはなかなかありません。
ほととぎすは古来からその声の美しさや「夜に鳴く」という特徴を愛でられてきた鳥で、和歌にもたくさん詠まれていますが、もしかするとこの二つの辞世では秀吉のことをさしていたのかもしれませんね。
どちらが先に読まれたのかとか、そもそも本当に二人が詠んだものかという証明ができないのでアレですけれど。

もしお市が先に詠んで覚悟の程を示し、勝家がそれを了承する意味で同じ「ほととぎす」という言葉を入れて自分の辞世を詠んだとしたら……そこには単なる恋慕や夫婦関係ではない、戦国ならではの信頼と愛情があったのではないかな、と思います。
美化しすぎですかね?(´・ω・`)

長月 七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/柴田勝家
http://ja.wikipedia.org/wiki/お市の方




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