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その日、歴史が動いた 幕末・維新

新選組・十番組長の原田左之助! 家族愛の強いパパ剣士だった

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松平定信や間部詮房など。最近江戸時代のカタブツの話を度々してきましたが、真面目さと同様、情に厚いこともまたときには命取りになります。
平時であればまだしも、激流の時代においては欠点となることも多々ありました。
本日も、そういった一例ではないかと思われる人のお話です。

慶応四年=明治元年(1868年)の5月17日は、新撰組の十番組長だった原田左之助が亡くなった日です。

強いのはもちろんですが、隊内でも美男子だったといわれていることもあり、また竹を割ったような性格などから人気の高い人物ですね。
しかし、その性格ゆえに28歳という若さで命を落としたのでは……と思われる点があります。
亡くなったときのことだけだと悲しくなってしまいますので、彼が生まれたところから話を始めましょう。

 

上司と合わずに出奔し、近藤勇の道場へ

原田は、伊予松山藩(現・愛媛県松山市)の藩主に仕える奉公人の家に生まれました。

しかし、上司とそりが合わなかったからか、若いうちに出奔。上司とケンカしたときに「切腹の作法も知らぬ下郎が!」と罵られ、その場で腹を切ってみせたことがあるらしいので、その手の売り言葉に買い言葉は日常茶飯事だったのかもしれません。キレたからって自分の腹まで切らなくてええんやで。
この件については、その後の新撰組でも自慢話にしていたらしいので、本人としては「やってやったぜ!」と思っていたのでしょうね。

藩を飛び出した後は、槍術の免許皆伝を受け、やがて江戸の試衛館(近藤勇の道場)にやってきました。以降、新撰組の初期メンバーとして活動していくことになります。
やがて隊の制度が整えられたときは、殿(しんがり)である十番組長を任されました。殿というのは軍が引き上げるときの最後尾の役ですから、負け戦のときには最も危険にさらされる位置です。おそらく、近藤は原田の気概を買って任せたのでしょう。

ご存知、新選組の局長・近藤勇/Wikipediaより引用

 

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新選組の中では珍しく結婚 家族愛も強かった!?

そんなわけで信頼もありましたので、原田は芹沢鴨暗殺・池田屋事件など、新撰組の大きな動きにも数多く関わりました。
しかし、そのせいで坂本竜馬暗殺犯と疑われたこともあります。犯人が伊予なまりだったといわれていたためですが、これは現在では否定する見方が強いようです。
誰も彼もが疑心暗鬼だった幕末のこと、少しでもそれらしき繋がりがあって、腕が立つと見られていた人物だからというだけで疑われた可能性も高そうですね。

竜馬の件はさておき、物騒な仕事を任されることも多かった原田ですが、私生活では情に厚い人物でした。
特に妻子のことは大事にしており、京都で結婚して男の子をもうけています。非番の日には息子を抱いて屯所へ自慢しに来ていたといいますから、余程可愛がっていたのでしょうね。

隊士には「リア充爆発しろ」と思われていたかもしれませんが。そもそも新撰組では正式に結婚した人がほとんどいませんでしたからね。

坂本龍馬とも交流が!?/Wikipediaより引用

 

彰義隊の上野戦争に参加したときの怪我がもとで……

戊辰戦争では甲州勝沼の戦いまで新撰組(当時は甲陽鎮撫隊)に同行していたのですが、その後、永倉新八(過去記事:新撰組二番隊組長にして撃剣師範・永倉新八! 激動の時代を駆け抜け77歳の天寿を全う【その日、歴史が動いた】)と共に別の隊を結成し、近藤らとは袂を分かちました。おそらくは北へ向かう予定だったと思われます。

が、その途中で「用事を思い出した」と言って隊を離れ江戸に戻り、さらには彰義隊に参加して上野戦争(過去記事:彰義隊 上野に散った旧幕府軍の悲しき結末【その日、歴史が動いた】)にも参戦。このときの戦闘で負傷し、その傷が元で亡くなっております。

永倉と別れたのは、おそらく京都に残してきた妻子を心配してのことと思われます。妊娠中だったといわれているので、どうしても気にかかったのでしょう。

しかし新政府軍が東進してくる中、すんなり西へ向かうことはできず、それならせめてと考えて戦争に参加したのではないでしょうか。
その情のために命を縮めたと思うと切ないものです。戊辰戦争がこの一年後で終わったことを考えればなおさらのことですね。

 

中国にわたって馬賊になったという生存説も!? 

が、例によって生存説もあります。
新潟から中国に渡り、馬賊(馬に乗った盗賊)になったというものです。
日清・日露戦争のときに原田を名乗る老人がおり、明治四十年(1907年)の愛媛新聞で「原田が今も生きていて、弟や甥と話した後満州に帰った」と報じられたことがあったそうなのですが……記事の画像や写しが見つかりませんでしたスイマセン。

源義経や真田幸村と同じく、一般の人に人気があったがゆえの願望が説話になったものだろうと思うのですが・・・。

原田の親族についてのことも、今では歴史に埋もれてしまっています。
一人息子の茂は子沢山だったという話があるので、たぶん今もご子孫がいらっしゃるのではないかと思うのですが、そこから後の世代については一切わからなくなっているようです。

まぁ、今の時代に名乗り出てきても、遺品や愛用品、もしくは直筆の手紙か写真あたりがなければ「売名乙wwwwww」と言われてしまうのがオチですからね。静かに暮らしていきたいのであれば、このまま埋もれていたほうがいいのかもしれません。
血縁でなくても、それらしきものがあるのなら某鑑定団あたりに出していただきたいものですが……元の身分が高くないだけに難しいですかね。

長月 七紀・記



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参考:今日は何の日?徒然日記 原田左之助/Wikipedia

 

 

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