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その日、歴史が動いた 江戸時代

新井白石 超マジメな学者ながら、浮草のような人生の不思議

更新日:

 

「学者さん」というと、何となく穏やかな人物を想像しますよね。もしくは超インドア派とか。

ところがどっこい、江戸時代には温厚でもなければインドア派でもない頭脳派もいました。
享保十年(1725年)5月19日に亡くなった新井白石です。

江戸時代中期の学者として有名で試験にもよく出る御仁ですね。
意外なことに彼の前半生は「波乱万丈」というほかない状態でした。父親及び本人の気性ゆえに穏やかな生活ができなかったからです。

新井白石/Wikipediaより引用

 

後を継いだ当主の器がちっさすぎ! 仕えたくないYO!

新井白石は久留里藩(現・千葉県君津市)の藩士の元に生まれました。藩主・土屋利直(つちやとしなお)には気に入られていたのですが、彼の後を継いだ土屋直樹(つちやなおき)に対し、白石の父がトンデモナイことを言い出します。

「アイツ器ちっせーから仕えたくない」(意訳)

かくして白石も父に従って勤めをボイコット。当然の事ながら藩を追われ、食うや食わずの生活になってしまいます。てか、上司が気に入らないからって、生活が危うくなるほうを選ぶとか度胸ありすぎやろ。

白石は「幼い頃から儒学の本を書き写していた」といわれるほど勉学好きだったので、何とか書物を得ては儒学や歴史、文学の知識を蓄えていきました。

直樹はその後幕府からクビを言い渡されて改易されるのですけれども、白石は久留里には戻らず、当時老中を務めていた堀田家に仕えます。
そして、堀田家もトラブル続きで落ち着けないと見るや、自ら辞職して放浪生活を始めました。それでも勉強は続けていたとのことなので、生まれながらの学者とでもいうべき質だったのでしょうね。

それをどこかから聞きつけた商人などに「婿養子になってくれ」と言われたこともあったようですが、全て断っています。
多分、算盤(そろばん)をはじくより文化的な勉強が性に合っていたのでしょう。子供はいるので、女性嫌いというわけでもなかったようですしね。

久留里城址資料館前(二の丸)に立つ新井白石像/Wikipediaより引用

 

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金よりお仕事 将軍就任前の徳川家宣へ仕える

そんなこんなで自ら腰を落ち着けようとはしていなかった白石は、29歳の時に朱子学者である木下順庵という人物の元に身を寄せました。
弟子ではなく客分扱いだったそうなので、この頃までに白石の見識は相当のものになっていたようです。食い扶持はどうしてまかなっていたんでしょうね?

36歳の時、甲府藩主だった徳川家宣への仕官が叶ったのも、順庵を通して話が来たからでした。
当初の給料が余りにも少なかったので、順庵は「これじゃあんまりです」と言ったらしいのですが、白石自身が「いやいや、甲府様は優れたお方だそうからこれで結構です」と引き受けたとか。

その読み通り、白石が53歳になった年に家宣は六代将軍となり、白石も主に従って幕臣となります。
家宣は白石と間部詮房(過去記事:実は日本史上屈指の出世マン・間部詮房 いわれなきスキャンダルで失脚す【その日、歴史が動いた】)を両輪として、後々”正徳の治”と呼ばれる改革を行いました。

が、白石は特別な役目を課せられておらず、一介の旗本に過ぎなかったため、直接話をしていたわけではないとか。

そのため、詮房が両者の間を行ったり来たりしていたそうなのですけども、これすごいめんどくさそうですよね。適当に役職を作って白石を呼べば良かったものを、なぜこんな面倒な手段をとり続けたのかは謎です。
白石は上記の通りですし、詮房も元の身分が低かったので、二人もそういう人物を側に置くのは幕閣への刺激が強すぎると考えたのかもしれませんが。

徳川家宣/Wikipediaより引用

 

詮房も白石も、揃いも揃ってTHE 偏屈!?

白石と詮房には、身分のほかにも共通点がありました。

「自分が良いと思ったことは頑として押し通す!」

そのため、やはり幕閣との軋轢を招いてしまい、家宣とその跡を継いだ家継も亡くなった後は一気に失脚することになりました。だから日頃の人付き合いは大事にしておけと。

晩年の白石は、千駄ヶ谷(現・東京都渋谷区)あたりにひっそりと住み、著作に励んでいたといわれています。
彼の随筆として有名な「折たく柴の記」は家継が亡くなった年に成立したか、書き始めたかといわれているのですが、どっちなのかよくわかりませんでしたスミマセン。
他にも、幕府にいた頃に密航してきたイタリア人宣教師を尋問し、その内容から「西洋紀聞」などを書いていますね。

個人的には、「折たく柴の記」よりも「西洋紀聞」から白石の考え方がよく判るような気がします。「西洋では技術が発展しているのに、宗教のこととなると”神様はエライから人間は従わなきゃいけない!”としか言わなくなり、まるで大人が子供になったようだ」(超訳)とまで書いてますからね。

多分、幕府の中で話すときもこういうバッサリした物言いだったんでしょうねえ。在職中の白石は「鬼」と恐れられていたそうなのですが、ソレ話が通じないって意味だったんじゃ……ゲフンゴホン。

長月 七紀・記



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参考:新井白石/Wikipedia 歴史研究所

 

 

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