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その日、歴史が動いた 幕末・維新 アメリカ

ペリーはアメリカで無名な存在だと!? 黒船を率いて開国を要求したペリーの苦労話

更新日:

日本の高校では、歴史の授業を日本史or世界史で選択するのが一般的です。
本当は、両史を同時に学ぶのが一番面白いハズ。世界に目を向けると宗教とか地理などで色々と違う点があり結構ややこしいですけれど、たまにサプライズというかハプニングというか「アホかいなw」ってこともあり、なかなか興味深いものですし。
そんなわけで、今回は、日本にとっては超重大事件だったアレを【外国の視点】から見てみたいと思います。

嘉永六年(1853年)6月3日、米国海軍のマシュー・カルブレイス・ペリーがアメリカ大統領の国書を携えて来日しました。

いわゆる”黒船来航”ですね。
「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も寝られず」という狂歌が読まれている通り、日本人にとっては一大事件であったと同時に、あちらさんはあちらさんでこの日のためにいろいろな苦労をしておりました。

ペリー/Wikipediaより引用

 

開国の理由は2つ 中国進出と捕鯨船の補給

そもそもなぜアメリカは開国を迫ったのか? 大きな理由が二つあります。

一つは、中国への進出です。当時はアヘン戦争で清(当時の中国)に勝ったイギリスを皮切りに、中国大陸やアジアでの植民地競争が加速していました。
飛行機のない時代、アメリカからアジアへ行こうとすれば大西洋・アフリカ・インド洋を通るか、太平洋を横断するかどちらかしかありません。単純な話、アメリカが一番距離的には不利だったわけです。

もう一つは捕鯨です。現在は日本が欧米からバッシングを受けまくっていますが、当時のアメリカでは照明や機械の潤滑油にするため、鯨油を大量に使っていました。
日本近海には、鯨油の原料となるマッコウクジラがたくさんいたのです。

この二つの理由から、アメリカは「日本で燃料とか食料とか補給したいなー。ついでに商売したいなー」(超訳)と考え始めました。
が、長らく鎖国状態だった日本がそう簡単に通商を始めてくれるわけもありません。実は、開国=通商の交渉に来たアメリカ人ってペリーが初めてではないんです。

かつて欧米ではさんざん捕鯨をしまくっておりました/wikipediaより引用

 

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通訳のミスで武士に殴られ、すごすご引き返す

直近ですと、これより遡ること七年前に、ジェームズ・ビドルという海軍士官が日本へやってきていました。

彼は清(当時の中国)へ望厦条約の批准書を持って行ったことがあったので、近所の日本へもお使いに来ていたのです。
当初はビドルの役目ではなかったのですが、担当者が入れ違いに帰国してしまっていたため、彼がやらざるをえなくなってしまったのでした。

北村一輝似? なかなかのイケメンかもしれません/wikipediaより引用

が、そんな感じで急遽交渉に当たることになったため、あまり準備ができておらず、通訳のミスで武士に殴られてしまったとか。カワイソス(´・ω・`)
大統領から「武力行使ダメ絶対」と言われていたビドルは、「これ俺じゃ無理だわ」と諦め、大人しくアメリカへ帰っています。

ペリーはこの件を聞き、「武力行使はできないし、日本人の性格をよく知ったうえで作戦を立てよう」と考えました。
そこで現代の日本円にして約1億円になるほどの膨大な資料をかき集め、日本人研究に没頭したのです。

一番高かったのがシーボルトの書いた「ニッポン」という本で、だいたい現在の価値にして200万円くらいだったとか。ペリーがいかに本気で資料を集めていたかがわかりますね。おそらく部屋は、図書館みたいになってたんじゃないでしょうか。

 

対日本人用のマニュアルを作成 ペリー、やるな・・・

現代の状況を鑑みると意外なことに、当時のアメリカは武力行使に反対の姿勢でした。
南北戦争直前で自国内の緊張が高まっていたというのもありますし、その段階で対外戦争をするような余裕がなかったからだと思われます。
もし、武力衝突なんてした場合、本来の目的である中国での権益獲得がますます遅れ、ヨーロッパ諸国に追いつくことが不可能になってしまいますからね。捕鯨がうまくいかなければそれも困りますし。

そんな感じで、交渉(物理)とドンパチを防ぐために、ペリーはありとあらゆる方策を講じました。
そして研究の末、ペリーが作った対日本人用マニュアルがこちらです。

1、返答期限をはっきりさせること
2、簡単に引き下がらないこと
3、国書は必ず重役に手渡すこと

……研究成果バッチリですな。これ全部やられて、それでも国書を突き返せる日本人ってそうそういませんよね……。

 

もしもロシアに先を越されたらアメリカ\(^o^)/オワタ

方針が決まったとなれば善は急げ。ペリーは早速出立の支度を整えましたが、ここで予想外の知らせが届きます。
「ロシア帝国からも日本へ通商を求める使者が出発した」というのです。
以前当コーナーでも取り上げた、ロシアン紳士・プチャーチンですね。(過去記事:英米よりずっと紳士でプーチン以上の親日家プチャーチンを知っているか?!【その日、歴史が動いた】

元々ロシアは中国と地続きですし、日本ともごくごく近所。もしこれで後れを取るようなことがあれば、アメリカがアジア周辺で権益を持つことは非常に難しくなります。
そのため、ペリーは大急ぎで大西洋を渡り、アフリカ南端を通ってインド洋を横切り、シンガポールやマカオで補給を続けながら日本へやってきました。ご苦労なことです。

ペリーとアメリカにとっては幸運なことに、この間プチャーチンの船は嵐に遭い、途中で追い越すことができました。日本にとっては……ノーコメントで。

旗艦「サスケハナ号」で日本へやってきた/wikipediaより引用

 

こんなに苦労してまで開国させたのに・・・

そして長崎ではなく東京湾(当時は江戸湾)に船を乗りつけたペリーは、当初の予定通りきっちり返答期限付きで大統領からの手紙を渡しました。

しかも、念には念を入れてとでもいうのか、期限ギリギリの日に江戸城の目の前まで軍艦を一隻乗り入れるというケンカの売りっぷりです。
もしここで幕府に余力が残っていたら、戦争が始まってもおかしくはありませんでした。ついでにペリーも大統領から怒られてえらい目ことになっていたでしょう。

実際の日本側の対応も、いきなり土下座をしたわけではありません。
幕府側の担当者だった林復斎(大学)が「補給は協力するけど通商はイヤだな(´・ω・`)」(超訳)と言い続け、ペリーを一度引き下がらせることに成功しています。
その後、別の人が粘りに粘ってきたので、結局通商もおkしないといけなくなっちゃったんですけどね。

ちなみに、こんなに苦労してまで日本を開国させたのに、ペリーはアメリカではほとんど無名なのだとか。
ペリーの帰国直後に南北戦争が始まってしまったので、周囲の反応が「ニホン? なにそれおいしいの?」みたいな感じだったようです。それもそれで哀れな……。

まあ、これ以上開国が遅れてたら日本にとってもあまり良くなかった可能性もありますし、ギリギリのところで双方にとって良かったって所ですかね。

版画のペリー。当時の日本人が描くとこうなるんですな/wikipediaより引用

長月 七紀・記



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参考:黒船来航/wikipedia その時歴史が動いた19巻

 

 

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