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その日、歴史が動いた 江戸時代

水野忠邦「天保の改革」は最初から残念な結果が見えていた?

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やる気があるのは結構なことです。
が、能力とかみ合っていないと空回りして、周囲に迷惑をかけることも多く、これに反骨心なんぞが加わった日には目も当てられませんよね。

現代人だけでなく、江戸時代にもそんなタイプと思しき人がおりました。

寛政六年(1851年)6月23日に亡くなった水野忠邦です。
「天保の改革」を行ったことで有名な人ですね。

水野忠邦/Wikipediaより引用

 

江戸政権下では由緒正しき譜代大名だったが

この人は家康の母・於大の方のお兄さんの血筋で、数ある水野家の中でも由緒正しい家柄でした。

当時の水野家は唐津藩(現・佐賀県)を所領としていましたが、忠邦は18歳で家督を継いだ後、幕府の中心で働きたいと考え、いわゆる「黄金色のおまんじゅう」(古い)を駆使し、どうにか江戸城・奏者番(大名と将軍の間の取り次ぎ役)の職をゲット。
しかし、この役職ではとても幕閣とは言えません。さらに出世したいと考えた忠邦は、家の事情に大きな障害があることに気付きます。

唐津藩は長崎周辺の警備を任されていたため、藩主が江戸城に詰めっぱなしというわけにはいかなかったのです。
普通ならここで諦めるところですが、忠邦はそんなことでは退かぬ媚びぬ省みぬのサウザー状態。なんと、25万石の唐津藩を幕府に返し、15万石の浜松藩へ領地替えを願い出て、幕府から許可を得てしまうのです。

もちろん家臣たちは「今ですら余裕があるわけじゃないのに何を考えてるんですか!?」と大反対され、あろうことか家老が諫死するほどの騒ぎになりました。

が、やっぱり退かぬ(ry)状態の忠邦には蚊の羽音ほどの障害にもなりません。もうこの時点で「バカ殿じゃねーか」とツッコミたくなってきますね。ホントご家老って損する立場ですな……。

唐津藩内にある特別名勝「虹の松原」/Wikipediaより引用

 

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京都所司代などを経てトントン拍子で出世

それでも、幕府には「領地を減らしてまで働きたいとは神妙なり」とでも思われたらしく、忠邦は狙い通り幕閣の入り口とされていた「寺社奉行」に就くことができました。
すると今度は忠邦へ袖の下を送って、便宜を図ってもらおうとする連中が出てきます。これにより浜松藩の収入+αを得たことで、家臣たちはある程度不平を収めたとか。

いやぁ、自害したご家老が哀れでなりません。二本松義廉(よしかど)という人だったらしいのですが、記録すらあまり残っていませんし……(´;ω;`)

ともかく決して無能ではなかった忠邦は、大坂城代や京都所司代を経てから西の丸老中など、とんとん拍子で出世します。

江戸城西の丸とは次代の将軍とみなされた人が暮らすところだったので、そこを任されたということは、将軍から「息子の代も頼むぞよ」と言われたも同然。忠邦はさぞホクホク顔だったことでしょう。
……(アンタのせいで)いなくなったご家老のこと、ときどきでいいから思い出してください……。

 

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遠山の金さんは忠邦の悪政から生まれた!?

その後、晴れて本丸老中となったのですが、世の中の流れはいつまでも忠邦をいい気にさせてはおきませんでした。
この頃外国の船が日本近海にやってくることが増えていたため、海防他さまざまな面で政治の改革が求められていたのです。

そして天保の改革が実施されるわけですが、これがまあ「法令雨下」と呼ばれるほど事細かな点まで取り締まることを基本としたため、庶民からの評判は散々なものでした。

時代劇でおなじみ「遠山の金さん」こと遠山景元は、実は忠邦の腹心と言っていい立ち位置の人だったりします。とはいえ脚色されてああなったわけではなく、忠邦のやり方があまりにも庶民を苦しめるので、なんとか手の届く範囲だけでも緩和しようとしたのでした。
それを称えた町人が、彼を元にした劇を作ったのが「金さん」の始まりだそうで。へぇへぇへぇ。

自分の部下に背かれるくらいですから、当然、忠邦に対する他の大名や旗本からの評判も良いとはいえないものでした。

遠山の金さんこと遠山景元、晩年の肖像画/Wikipediaより引用

 

「命があるだけマシ」で強制隠居

そして、上知令(幕府による地上げ&領地換え)を強行しようとしたために、景元とは別の部下に裏切られて老中をクビになっています。

領地換えによって土地は整理できるかもしれませんが、大名や旗本にとっては「加増や処罰でもないのに、何でわざわざ大金をかけて引越ししないといけないんだ!」というわけです。ついでに、当時の武士はほとんどが自領内の富裕層から借金をしていたため、債権を持つ人々から見れば「お上が借金を踏み倒させようとしている!」とも見えてしまったのでした。

自分だって一回国替えしてそれなりにお金を使ったでしょうに、何でここがわからなかったんで少ねえ。まさか自国の経済にノータッチだったなんてこともないでしょうし。

老中を罷免された後は、恨みを積もりに積もらせた庶民に屋敷を襲われたり、一年後に老中へ再任されてもろくに仕事をさせてもらえなかったりなど、厳しい言い方をすれば「自業自得」な状態だったようです。

「体調を崩したのでしばらく休みます」と言いながら、その一方で裏切り者へ報復したりと、「何だかなあ」な言動は続きました。

これを見かねて、他の老中は「もうあの人追い出しましょうよ」という意見でまとまり、忠邦は強制隠居・大幅な減封・国替えという「命があるだけマシ」といった罰が下りました。
この国替えのときにも借金を踏み倒そうとしたため、かなりデカイ規模の一揆を起こされています。しかも、事を収めたのは入れ替わりに来た井上正春という人でした。跡を濁すにも程があるやろ。

 

薪水給与令だけは続けても良かったかも?

そんなわけでまさに「権力欲の塊」な人なのですが、忠邦の採った政策でひとつだけ、続けてもよさそうだったものがあります。「薪水(しんすい)給与令」というものです。彼のオリジナルではなく、これ以前にも出されているので、年号を取って「天保の薪水給与令」と呼ばれることもあります。

これは書いて字のごとく、「外国とは付き合わないけど、船の燃料と飲み水の補給だけはしてもいいよ!」というものでした。
これ、ペリーが「開国してよ!」と言ってきたときの条件のひとつでしたよね。(過去記事:黒船ペリーの悲哀 日本開国のため超苦労したのにアメリカでは無名だって!?【その日、歴史が動いた】

後の黒船来航も違ったカタチになっていた・・・かも?/Wikipediaより引用

忠邦の失脚によってこの法律もわずかな期間しか施行されなかったのですが、もし幕末までこれが有効だったとしたら、「ハイハイ燃料と水はあげますから、これ以上関わってこないでくださいね^^」と時間を稼ぎ、その間に軍備を整える……なんてことができたかもしれません。
もしかしたら、永世中立化できた可能性もなくはないですね。永世中立国といえばスイスですが、これが認められたのは1815年(文化十二年)のウィーン会議でのことでしたし。

その後は技術の発展によって石油が重要になってきますので、シーレーンを押さえられたらやっぱり史実と同じような道をたどりそうですが……。また、日本とスイスでは地政学的な特性が全く違いますので、遅かれ早かれ列強の影響を受けたでしょうけども。
まあ、いつものとりとめもない「IF」ということで。

長月 七紀・記

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参考:水野忠邦/Wikipedia 天保の改革/Wikipedia

 

 




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