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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

黒田清輝 日本最高の西洋画家は薩摩出身にして従軍画家や政治家にも

更新日:

 

歴史上の人物というと、いかにも真面目だったり苛烈だったりといったイメージが付きまといますが、少し調べてみると「そんな面もあったのか!」と思うことが多々あります。

有名どころでいえば、「織田信長は相撲が好きだった」とか、現代でわかりやすいところだと「現イギリス女王のエリザベス2世は、第二次世界大戦中に軍の実務を行ったことがある」とかでしょうか。
本日はその中から、一見、真逆に見える職業を二つこなした人物のお話をいたしましょう。

慶応二年(1866年)6月29日は、政治家にして洋画家である黒田清輝が誕生した日です。本名は「きよてる」、画家としては「せいき」と読むそうですね。いっそ漢字も変えてくれたらわかりやすかったのに(ボソッ)。

代表作である「読書」や「湖畔」などが教科書に良く載っているので、どちらかというと画家としてのほうが有名でしょうかね。
「なぜその二つを両立した」と不思議に思ってしまいますが、一体どんな生涯を送った人だったのでしょうか。

黒田清輝の代表作「湖畔」。誰しも一度は見たことがおありでしょう/Wikipediaより引用

 

芸術の都・パリで完全に開眼してしまう

黒田は薩摩藩士の子として生まれ、小さい頃に、子爵位を持っていた伯父の養子になって東京へやってきました。
そのまま二松學舍(現在の二松學舍大学の前身。当時は漢学塾だった)に進み、同時期に鉛筆画や水彩画を開始。
貴族に列する家のおぼっちゃまですから、本当であればその後法律や政治についての勉強に邁進しなくてはなりませんでした。

実際、そのために色々な学校へ行ったり、フランスへ留学もしたのですが、芸術の都・パリでほかの日本人画家や画商に出会ったことで、何と画家として生きることを決めてしまいます。
よく伯父さんに勘当されなかったものですね。

帰国後は美術教育に力を入れ、研究所を開いたり、引き続き絵を描いたり、芸術の世界で生きていました。
が、まだ西洋美術に馴染みのない時代に裸婦画を描いたことで、お約束のように論争を巻き起こします。時には警察から「絵とはいえ、裸の婦女子を公共に飾るとはけしからん!」とお咎めを受けて、絵の下半身を布で隠すという滑稽な事件もありました。

その様子から「腰巻事件」とも呼ばれています。

ご本人。とても人柄良さそうな雰囲気の佇まいです/Wikipediaより引用

 

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従軍画家として日清戦争に同行したこともあった

話は少々逸れますが、同時期のイギリスでは「家具とかピアノの足ってなんかエ□くね?」という理由で、ありとあらゆる家具の足にカバーが被せられていたそうで…。もうちょっと前の時代には「ソファってエ(ry」という概念も珍しくなかったらしいのですが、生き物ですらないものから何を感じ取っているんですかね。

日本ではさすがにそこまでの妄想力を発揮する人はいなかったようなので、腰巻事件なんて可愛いものに見えてきます。春の絵(意味深)にしたって少なくとも一人は人間が描かれてますし。

話が多少前後しますが、黒田はいわゆる従軍画家として日清戦争に行ったこともありました。
当時はまだカメラがそうそう普及していませんでしたし、絵の持つ力は侮れなかったので、画家がマスコミの一員として戦場に行くこともあったのです。

あまり枚数は多くありませんが、現在も戦場や野戦病院の様子を描いたスケッチが残されています。

同じく代表作の『読書』/Wikipediaより引用

 

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亡くなる2~3ヶ月ほど前に見た「梅林」で絶筆

そんな感じで画業に励んでいた黒田ですが、やがて転機が訪れます。
義父が亡くなったため、爵位を継いで政界に入らなくてはならなくなったのです。とはいえ黒田自身も議員になって四年で亡くなってしまったので、あまり政治家としての功績は残っていません。
だからこそ、黒田の名前を聞いても画家というイメージしかないのでしょうね。ググる先生にお尋ねしても、「1920年に貴族院議員になりました」ということしか出てきませんし。

黒田は亡くなる前に一度倒れていて、しばらく静養に入っていたのですが、起き上がれる間は絵のことを決して忘れませんでした。

絶筆にして最後の作品とされる「梅林」は、亡くなる2~3ヶ月ほど前に、静養先の病室から見た風景を描いたものとされているのです。
筆ではなくペインティングナイフ(平たいコテやノミ・やすりのような形をした道具)を多用していたらしく、他の絵よりも荒々しさといいますか、生への執念というか、絵に対する妄執がうかがえる気がしますね。

最後の作品「梅林」/黒田記念館HPより引用

 

「遺産は美術のために使ってほしい」

本人としてはこの後、筆でもう少し描きこみを入れたかったのかもしれませんが、それは叶いませんでした。
葛飾北斎などの浮世絵と比較してみるとすぐわかりますけども、黒田を含め、この時代からは人間や物体を立体的に描くのが主流になっていきます。
明治時代に入って「西洋文化サイコー! 西洋に追いつけ追い越せ!!」という風潮が強かったからなのですが、そのために日本画や浮世絵はしばらくの間忘れられてしまいました。

これは江戸時代からあった話ですが、ものによっては現代の新聞紙や雑誌などと同程度の値段だったとはいえ「芸術作品」である浮世絵を、陶磁器の緩衝材に使っていたくらいですしね。
それに光を当ててくれた人が黒田とほぼ同時期にいたのですが、まあその話は日を改めましょう。

黒田は遺言で「遺産は美術のために使ってほしい」と書き残していました。
それに応じて建てられたのが、現在東京国立博物館のすぐ近くに建っている「黒田記念館」です。

今年の始めにリニューアルオープンしたそうで、現在は前述の日清戦争時のスケッチなどが展示されています。
入館料は無料とのことですので、トーハクや動物園の喧騒に疲れたら、こちらへ立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:黒田清輝/Wikipedia 文化遺産オンライン 黒田記念館

 

 




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