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女性 その日、歴史が動いた 源平

日本史三大悲劇のヒロイン・大姫(源頼朝の娘) 悲嘆に暮れたナインティーン

更新日:

 

「結婚は人生の墓場である」とはよく言ったものです。元々の意味は違うというか、誤訳されたもののようですが、これほどハマる意味になっているのも珍しいですよね。
しかし、世の中には結婚する前から墓場に叩き込まれてしまったような感じの人もいました。

建久八年(1197年)7月14日にで亡くなった、源頼朝の長女・大姫です(当時の年齢では二十歳で亡くなりますが、タイトル上お許しくだせぇ)。

この「大姫」というのは「エライ人の長女」くらいの意味で、本名はわかっていません。このあたりの時代では「いいとこのお嬢様は本名を名乗らないもの」とされていたためです。源氏物語にも「大君」という人がいますので、何となくわかる方も多そうですね。

逆に、実名らしきものがわかっている女性は、元々さほど身分が高いわけではなかったということもできます。
ある意味、母の政子よりも娘のほうが身分が高いということになりますね。

しかし、この姫の一生は幸せなことなどほとんどありませんでした。
何でかというと、両親(主に頼朝)によって、悲しいことばかり味わったからです。

今回は頼朝さん娘のお話です(足利直義説もある源頼朝肖像画)/wikipediaより引用

今回は頼朝さん娘のお話です(足利直義説もある源頼朝肖像画)/wikipediaより引用

 

父親同士の争いで婚約が破談し、殺される

源頼朝長女の大姫は、まず5歳の頃に婚約が整いました。それだけならまだしも、相手が源(木曽)義仲の息子・義高だったものですからさぁ大変。

双方の父親の仲がこじれたため、当然の成り行きで婚約も破談。皆さんご存知の通り、義仲は頼朝の弟たちである源範頼・義経に討たれ、義高もまた「後顧の憂いを絶つために」と、頼朝から命を狙われることになります。

これを侍女から知った大姫は、義高を女装させ、さらにひづめに綿を巻いて足音を立てないようにした馬に乗せて逃がしたのだとか。その状態で走れるんでしょうか。実験するわけにもいきませんが。
この辺の機転からして、大姫本人、もしくは周りにかなり頭の良い女性がいたのでしょうね。

しかし、娘の必死の抵抗は天に通じず、あっという間に父親へバレ、追撃によって義高はあえなく討死。
頼朝はさすがに大姫へは知らせなかったものの、どこからかやはり耳に入り、これ以降大姫は寝込みがちになってしまいました。

頼朝と袂を分かって討ち滅ぼされた源義仲。その息子が婚約相手だった不幸……/wikipediaより引用

 

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政子「姫にヘンな物の怪がついた!」

ここで激怒したのがやっぱりというかなんというか、政子です。

「義高の首を取った奴がロクデナシだから、姫にヘンな物の怪がついたに決まっています! あの者を処分してください!!」

頼朝にクレームをつけると、実際、その武士は処刑されてしまいます。
これではあんまりで、忠実に命令に従った人が可哀相過ぎ。そんなことしてるから三代で滅んでしまったんですかね……。

なんとも不幸な目に遭ってしまった長女ですが、なにわともあれ征夷大将軍の娘ですから、病がちだからといってそのまま独身で通すわけにも行きません。
そこで頼朝は、自分の甥っ子である一条高能(たかよし)という公家との縁談を勧めました。

が、父親にこんなことをされて、そうホイホイ新しい縁談にうなずくわけはないですよね。
大姫が「無理にというなら身投げします!!」とまで言って拒否したため、さすがの頼朝も引き下がらざるを得ませんでした。
なんというか、女性の扱いに関しては義経のほうが上手そう……。

上記の画像は源義高最期の地とされる埼玉県狭山市入間川の『清水八幡』です photo by 小山芳姫@南北朝時代の実在の姫 (@1000Roku)さん

 

後鳥羽天皇へ嫁がせようとしたものの……

しかしこのトーチャン、まだ懲りません。
数年後、頼朝は「そろそろあの子も落ち着いてきただろう。何、最近調子が良さそうだ? よし、入内だ!」(※イメージです)と思い立ち、ときの天皇である後鳥羽天皇へ娘を送り込もうとしました。
断れないようにするためなのか、今度は、政子や大姫を連れて上洛してから準備を始めるという念の入れようです。しかも、関係各方面のあまり身分が高くない者にまでわいr……贈り物をするという徹底振りでした。

さすがに順調に行くでしょう! と思いきや、慣れない旅先の水が合わなかったのか、大姫は入内が成る前に亡くなってしまうのです。たった19年、しかもその大部分は父親のせいで悲しみに暮れた人生でした。
上記の経緯からすると、もしかしたら自ら命を絶ったのかもしれませんね。

大姫の死の2年後には頼朝も謎の死を遂げ、さらに22年後には実朝が暗殺されて源氏の直系は絶えてしまいます。
もし頼朝がはじめから公家との縁談を考えていて、それがうまく行っていたら、大姫の子供を四代将軍として迎えることも出来たでしょうね。
そう考えると頼朝の自業自得というか、因果なものです。

tomorroweye29

 

お墓もハッキリしておりませぬ(´・ω・`)

「幼少の頃に整えられた縁談が親のせいで破談になった」という点では、武田信玄の娘・松姫などもいます。が、大姫の場合はその後の救いもなく、ただただかわいそうでなりません。

素性が明らかな日本史上の女性としては、ワースト3に入る悲惨な人生なんじゃないでしょうか。お墓もはっきりしていませんし。

一応、鎌倉の常楽寺というお寺に義高と並んで葬られているとされていますが、定かではありません。というか亡くなってからじゃなくて、生きてる間に一緒にしてあげてよ(´;ω;`)

頼朝のせめてもの贖罪だったのかもしれません。

果たして大姫は父を許す気になったのでしょうかね。

長月 七紀・記



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参考&TOP画像:大姫(源頼朝の娘)/wikipedia

 

 

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