ヤドヴィガ/wikipediaより引用

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10才で即位したポーランド・ヤドヴィガ姫は女王じゃなくて王なの、王、おぅ!

1399年(日本では鎌倉時代・応永六年)7月17日は、ポーランド王・ヤドヴィガが亡くなった日です。

この人に関して特筆すべきことは三つ。

一つめは、10歳で即位したこと。
二つめは、えらく年上の隣国の王と結婚してポーランドの全盛期を作ったこと。
そして、女性でありながら男性と同じ「王」という称号を持っていることです。

早速、彼女の人生を振り返ってみましょう。

 


モンゴル追放後に移民を受け入れ国が豊かに

ポーランド史については、以下の記事で触れたことがありますので、ここまでの経緯は省略させていただきますね。

知られざる国・ポーランドの歴史が結構凄い~ショパンやズブロッカの発祥地

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ちょっと具体的に言うと、前述の記事で出てきたヴワディスワフ1世という人のひ孫が今回の主人公・ヤドヴィガです。

世界史的に言えば、モンゴル帝国を何とか追い払って、ポーランドが持ち直してきた時期の話。
この頃の出来事は同国の発展でメリットになったこともありました。

移民を奨励したおかげで、人の流れが活発になり、さらに他の国で迫害されていたユダヤ人にも「仕事してくれるんならうちに来ていいよ」という方針だったため、少しずつ国が富んでいったのです。

ポーランドは当時ハンガリーやオーストリアとの結びつきが強かったので、当初ヤドヴィガもオーストリア公子と結婚する予定でした。

王女にふさわしく各国語や芸術、当時の最先端科学などの教養を身につけており、どこに出しても恥ずかしくないお姫様だったようです。
また、自身の名の元になった「シロンスクのヤドヴィガ」をはじめ、カトリックの多くの聖女を信仰していたとか。

 


「女王」という言葉に「王の配偶者」という意味があったので

しかし、ヤドヴィガが成長すると、当初の予定と食い違うことが多々出てきました。

ものすごく単純に言うと、ポーランドとハンガリーの関係が悪化したため、ポーランドの貴族たちが「ウチはもうハンガリーとは絶交するから、違う王様を立てます!!」と言い出したのです。

かくしてまだ10歳のヤドヴィガが、ポーランドという国を背負うことに……。

男性君主しか使えないはずの「王」という称号を使ったのは、当時「女王」という言葉に「王の配偶者」という意味が含まれていたからです。
「うちのヤドヴィガ様は誰かの奥さんじゃなくて、独立した王様なんだからな! ポーランドも同じだ!!」というポーランド側の意思表示だったのでしょうね。

しかし、男性だろうと女性だろうと、世継ぎをもうけるのが君主の責務です。
当初の婚約が破棄された以上、ヤドヴィガは新たな夫を迎えなければなりませんでした。

そこで最終的に決まったのが、隣国リトアニアの主・ヨガイラという人でした。
25歳もの歳の差婚でしたが、どちらかがもう一方を吸収するのではなく、ポーランドとリトアニアの両方を二人で統治するというスタンスを取ったおかげか、比較的仲が良かったようです。

また、このときポーランド側から出した条件に「リトアニアがカトリックに改宗すること」というものがありました。
これにより両国は宗教的な結びつきもでき、現代でもこの両国はカトリックが多数派です。

さらに、リトアニアは当時北方十字軍の一つ・ドイツ騎士団との戦いにも手を焼いていたため、体裁的にはこれで厄介事が減りました。といっても相手がすぐに諦めてくれなかったので、一度派手にぶつかり合って勝ち、ようやく事が収まったのですが。

最終的には戦争になってしまったものの、ヤドヴィガはこのときもドイツ騎士団との和平交渉を進めていたといわれています。
既に17歳になっていましたから、もし彼女が単独君主であれば和平の道もあったかもしれませんね。

 


難産で生まれる予定だった娘と一緒に死亡 まだ26才だった

ヨガイラことヴワディスワフ2世は、妻のヤドヴィガが戦争や政治に関わることをよしとしませんでした。

それでも権力を全て取り上げるようなことはせず、文化や福祉に関することはヤドヴィガに任せていたようです。
ポーランド最古の大学・ヤギェウォ大学は彼女が復興させたものですし、他にも病院を建てたり、リトアニアの若者にお金を与えてプラハ大学で学ばせたり、限られた中でも懸命に仕事をしていた様子が伺えます。

クラクフ大学を復興させるヤドヴィガ/wikipediaより引用

ヤドヴィガはそんな健気な女性だったのですが、26歳のとき難産で亡くなってしまいました。
生まれるはずだった王女も間もなく命を落としたといわれています。

当時のポーランドはヨーロッパの中でも衛生的な国で、ウォッカによる消毒や清拭が日常的だったそうなのですが、その状況で母子共に死亡というのは何とも言えませんね……出産の恐ろしさがよくわかるというものです。

困ったのは夫のヴワディスワフ2世。
実質はどうあれ、やはりポーランドはヤドヴィガのものだったからです。

血筋的にも実態的にも対抗馬が現れなかったため、王位を保つことはできたのですが、当時はヒヤヒヤしていたでしょうね。

携わっていたのが文化と福祉という庶民にも縁のある分野だったからか、死後早いうちからヤドヴィガは聖女として扱われていたようです。

とはいえそれは一般人の間でのことで、ヴァチカンに認められたのは1997年のことでした。
それも、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世がポーランド出身だったため、積極的に動いたからだと思われます。

自分のできることを精一杯やっていた彼女ですから、
「あら、私聖女様になれたの? 嬉しいわ」
くらいにしか思わないかもしれませんけどね。

長月 七紀・記

【参考】
ヤドヴィガ(ポーランド女王)/Wikipedia
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a14_poland/poland.html


 



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