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その日、歴史が動いた 徳川家 関ヶ原の戦い

徳川家康の「小山評定」 関が原へ臨む前に開いた大事なカイーギの内容とは?

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夏に入ると、日本史的には「そろそろ関が原トークを始める季節だなぁ」という気がしますね。
なんせ本戦がたった一日で終わってしまっていますから、その前に色々とあった各家・各武将の動きや前哨戦も考えていかねば、せっかくの歴史ロマンがもったいないというものです。

てなわけで、本日は関が原の前哨戦のそのまた前のお話。
慶長五年(1600年)7月25日、徳川家康が小山評定(会議)を開きました。

関が原の戦いの前、家康が各地の大名に「で、お前らどっちにつくの? 妻子を人質に取られてるなら向こうについてもいいんだけど?(だが潰さないとは言ってない)」(超訳)と迫った件として有名ですね。
どんな会議だったかはこれだけで説明が終わってしまうのですけれども、前後事情から改めて見てみましょうか。

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【TOPイラスト】富永商太

 

直江状を受け取った家康が上杉討伐に出かけたところ

秀吉が亡くなった後、五大老筆頭だった家康がますます存在感を大きくし、対して五奉行の筆頭だった石田三成が(#^ω^)ビキビキしていたのは皆さんご存知の通りです。

そんな中、東北では上杉家がどう見ても戦の仕度にしか見えないことを始め、さらに家康へ果たし状としか思えない手紙を出してきました。いわゆる「直江状」です。
この話はこちらの記事(過去記事:直江兼続『直江状』をめぐる一連の騒動 徳川家康を激怒させた内容とは? 【その日、歴史が動いた】)で今年の四月にしていますので、割愛しますね。

ほうっておくわけにもいかないので、家康は各地の大名を率いて上杉征伐へ向かいました。
ところが、その間に大阪では三成が大名の妻子を無理やり人質に取り、「逆賊・家康を討つ!」と言い始めます。
大名の妻子は素直に従った者、こっそり逃げ出した者などいろいろいましたが、最後まで抵抗の末に自害した細川ガラシャ(細川忠興の正室)が有名ですね。

愛はLOVEの愛じゃない、兼続です/絵・富永商太

愛はLOVEの愛じゃない、兼続です/絵・富永商太

 

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家康派・大名たちのリアクションは3つに分かれた

さらに三成方は、家康が上方の留守居に残していた鳥居元忠の伏見城(現・京都府)を攻撃します(関連記事:忠義ここに極まれり!関が原前哨戦 伏見城の戦い【その日、歴史が動いた】)。
こういった動きが、東北に向かっていた家康たちに知らされたのが同年7月24日のことでした。まだ会津にはたどり着いておらず、手前の小山(現・栃木県小山市)だったので、今後どう動くべきかを相談するため、ここで評定が開かれたのです。

そしてこの結果、大名たちは大きく三つに分かれました。
一つは言わずもがな、家康に味方することを明らかにした者。
もう一つもこれまた当然のことながら、三成(人質)のために西へ向かった者。
そして、いずれが勝っても家名が残るように、親子兄弟で家康・三成それぞれについた者です。

有名どころをざっくり並べてみましょうか。めんど……長くなりすぎるので、家康と三成の親類縁者や彼らの家臣として名高い人は除外しますね。

【家康(東軍)についた大名】
大野治長(淀殿の愛人説があるあの人)
京極高知(蛍大名・高次の弟)
竹中重門(半兵衛の息子)
藤堂高虎(戦国の転職王)
古田重然(織部)
細川忠興(正室を殺されて激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム中)
森忠政 (長可・蘭丸の末弟)

【三成(西軍)についた大名】
毛利秀元 (元就の孫)
宇喜多秀家(戦国のイケメンリア充)
大谷吉継 (唯一三成をボロクソに諫言できた人)
小西行長 (元商人・キリシタン大名)
島津義弘 (家康につくつもりだったが事の成り行きで西軍に)

【一家分かれて両方についた大名】
真田家(父・昌幸と弟・繁信が三成方、兄・信之が家康方)
九鬼家(かつて信長に水軍を率いて仕えた家。父・嘉隆が三成方、子・守隆が家康方)
鍋島家(子・勝茂が三成方、父・直茂が家康方)

 

全国でも行われていた関が原にからんだ合戦

また、この時点で国元にいた大名たちは、各地で家康・三成どちらかにつくことを決め、それぞれ戦っています。
これもたくさんあるので、主だったところだけご紹介しましょう。

【東北】
上杉家vs最上家&伊達家
ここにはえげつないエピソードがあるので、そちらもよろしければどうぞ→過去記事:

【近畿】
田辺城の戦い 細川幽斎vs小野木重勝・前田茂勝
大津城の戦い 京極高次vs立花宗茂

【九州】
石垣原の戦い 黒田孝高vs大友義統(宗麟の息子)

教科書では「家康が勝って江戸幕府の下地ができました」としか言われませんが、こんなにも広い範囲で戦が起きていたからこそ、”天下分け目の関が原”として、日本史上すっ飛ばせない戦になっているわけですね。

また、杭瀬川の戦い(過去記事:関ヶ原の戦い・前編!家康・三成共にガクブルの前哨戦は西軍勝利だった【その日、歴史が動いた】)のように西軍が勝った戦闘もあったり、上記のガラシャをはじめとして妻子たちの動きもまた、個性のうかがえるエピソードがたくさんあるので、調べれば調べるほど面白い戦でもあります。

こうしてみると、あまり歴史を知らない人や暗記させられた記憶しかない人に、歴史の面白さを伝えるには一番いいネタかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記 関が原の戦い/Wikipedia 家康公史跡めぐり

 

 

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