ラファイエット/wikipediaより引用

フランス

仏米で「両大陸の英雄」と絶賛された 軍人ラファイエットの一生

1792年(日本では江戸時代・寛政四年)8月19日は「両大陸の英雄」と呼ばれた軍人・ラファイエットがオーストリア軍に投降した日です。

「投降しておいて英雄とかビミョーだな」
と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、そこはそれ、この時代ならではの複雑な事情がありました。

ついでに言うと、「ラファイエット」というのは爵位の名前であって個人名ではありません。

本名は以下の通り。
「マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ」

こう言われても「誰それ?( ゚д゚)」状態になるので、ほとんどの場合、爵位名で書いているようです。

ポンパドゥール夫人の本名「ジャンヌ=アントワネット・ポワソン」もほとんど知られていませんし、フランスにはこういうの多いですよね。

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日本でも通称や出家後の名前のほうが有名な人はたくさんいますので、似たような感覚なのかもしれません。

それでは、まずラファイエットの生い立ちから見ていきましょう。

 


14歳で軍に入隊し、16歳で結婚、19歳でアメリカ独立戦争へ

爵位があるくらいですから、ラファイエットはフランス貴族の子として生まれました。

父親も軍人で、ラファイエットが2歳のときに、七年戦争(オーストリアvsプロイセンの戦争第二ラウンド)で戦死。
父と同じ道を選んだ彼は、14歳で軍に入隊し、さらには16歳で結婚しております。

彼が英雄と呼ばれるきっかけになったのは、19歳のときに起きたアメリカ独立戦争でした。
後に在フランス公使となるベンジャミン・フランクリンに出会い、義勇兵としてアメリカへ渡っていたのです。

当時は珍しくなかったのでしょうけども、結婚して三年で別の大陸に行かれた奥さんが可哀想に……(´・ω・`)
一度帰国して再びアメリカに行っています。

余談ですが、この後、彼の妻や家族に関する記録はほとんどありません。
革命のときに巻き込まれていたら、ラファイエットの行動にも影響したでしょうから、おそらく穏やかに控えめに暮らしていたのでしょう。

再び渡海したラファイエットは、独立戦争で事実上の最終決戦となったヨークタウンの戦いで戦功を挙げ、アメリカでもフランスでも英雄視されるようになりました。

このとき24歳。
見た目も中身も英雄にふさわしく見えたことでしょう。

ヨークタウンの戦い、コーンウォリスの降伏/wikipediaより引用

 


フランス人権宣言の起草も手がけていた

一度「英雄」になった人物は身を引くか、そのまま何らかのトラブルで亡くなるケースが多いような気がします。
が、ラファイエットはまだまだ若かったこともあり、活躍を続けます。

アメリカの独立に続く世界史の一大事件といえば、やはりアレでしょう。

1789年フランス革命――母国の大きな変動に、ラファイエットももちろん関係しました。

元々ラファイエットは貴族の生まれですから、三部会の第二身分=貴族の代表の一人でもありました。

しかし、アメリカ独立戦争に影響されてフランス革命が起きたように、ラファイエットも独立戦争の中で貴族や王制に疑問を抱きます。
そして第三身分=平民寄りの言動をするようになっていきました。

これが市民にも伝わっていたため、ラファイエットはバスティーユ監獄襲撃の後に創設された国民衛兵の総司令官となります。

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用

また、あの教科書で必ず覚えさせられる「フランス人権宣言」の起草も彼の手によるものです。

学生の頃「どっちがどっちだかわかんねーよ!」と憤慨した方は多いと思いますけれども、そりゃ両方に関係した人が作ってるんですから内容が似るのは当たり前ですよね。

が、彼の絶頂期はここまででした。

 


パリの集会で威嚇なしの発砲許可 一気に信を失ってしまう

革命軍や民衆は、やがてルイ16世一家をヴェルサイユ宮殿から引きずり出すなど、暴走を始めます。

ラファイエットたち国民衛兵は、このときだけでなくヴァレンヌ事件のときも抑止力にならず、民衆からの視線がどんどん冷たくなっていきました。

ヴァレンヌ事件~革命から逃亡したルイ16世達は一戦交えようとした?

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なぜ人は、マイナスのことだけは団結できるんでしょうかねぇ。
ユグノー戦争のときもそうでしたが。

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この状況にラファイエットも段々焦れてきたのか、ついに強攻策を取ってしまいます。
なんとパリの公園で集会をしていた人々に対し、部下に威嚇射撃なしの発砲を許可してしまったのです。

当然のことながら大騒ぎになり、これを機にラファイエットは名実共に失脚しました。

このとき虐殺が起きたともいわれていますが、実際の犠牲者は多くても十数人程度だったそうです。

つまり、ラファイエットや国民衛兵を引きずり落とそうとする、いいキッカケだと判断した人々が過剰に宣伝したんですね。
情報戦の基本ではありますが、それを対立する相手とはいえ自国民相手にやったというのが実に後味の悪い話です。

 

亡命先のオーストリアでは捕虜扱い

汚名を雪ぐため、ラファイエットはパリ市長選挙に出ます。

が、虐殺の首謀者と思われた状態では当選も適いません。
その後、フランスvsオーストリア・プロイセンの戦争(フランス革命戦争)で一軍の司令官に復帰し、間もなくクビになってしまっています。

このころパリでは、毎日ギロチンが嫌な活躍をしており、身の危険を感じた彼はオーストリアに亡命するのですが、オーストリア軍はあくまで「投降した捕虜」として扱ったため、五年間投獄されることになってしまっています。

それを乗り越えた後は故郷のオーヴェルニュに戻り、隠遁生活を送りました。
この頃には40代に入っていましたから、少しずつ心身の衰えを感じたりしたのかもしれません。

ただし、アメリカでは変わらず英雄として遇されました。

67歳のときには、アメリカ政府から国賓として招かれ、1年3ヶ月かけてアメリカ各地を旅行しているくらいの扱いなのです。
YOU、もう帰化しちゃいなYO! と言われなかったんですかね。

しかし、ラファイエットは母国を愛し続けたようで、帰国の後、1834年にパリで亡くなりました。

 


トリコロールカラーは彼の発案によるもの?

死後もアメリカでは彼に対する敬慕の念は止まず、2002年になって名誉市民に選ばれました。

フランスでは特に何もしていないようです。

母国よりも他国で評価の高い人というのは時々おりますが、彼の場合は「英雄」と言われていただけに、なんだか釈然としない話ですよね。

ちなみに、現在のフランス国旗(トリコロールカラー)は、彼の手によるものという説もあるそうです。

フランス国旗

当初、青と赤だけだったのを、白を加えて三色旗にしたのだとか。

この白は百合=ブルボン家の象徴ともされていて、それを真ん中に持ってきたあたりに、ラファイエットの王家に対する尊敬の念が見え隠れしますね。
だからこそ反発も招いてしまったのでしょうけれども、現在も使われているということは多少扱いがマシになったのでしょうか。

ついでにいうと、他の三色旗の多くが「フランス革命に倣う」という意味であえて似たようなデザインにしたといわれています。
イタリアとかアイルランドとか。

そういう意味では「国旗の父」とも言えるかもしれませんね。

長月 七紀・記

【参考】
ラファイエット/Wikipedia
フランスの国旗/Wikipedia
アメリカ独立戦争/Wikipedia
フランス革命/Wikipedia


 



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