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『三国志』に降臨した稀代の天才・諸葛亮孔明 もしも欠点を探すとしたら……

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世の中に欠点のない人はいません。おそらくこれは古今東西、信教や民族に関係なく確実なことでしょう。
長所があまりにも大きくて、短所があることも忘れてしまうという人はたまにいますが……。本日はたぶんそんなタイプの一人、諸々の故事成句を生んだあの人のお話をいたしましょう。

234年8月23日は、三国志でも有名な人物の一人・諸葛亮が亡くなった日です。

彼にまつわる逸話だけでも薄めの文庫本くらい書けそうですが、実は彼の個人的な部分については不明確な部分も多かったりします。
唯一はっきりしているのは、とても長身だったということ。
昔の中国の度量衡はコロコロ変わっているのですが、諸葛亮の場合、どの時代の単位でも身長180cm以上あったといわれています。でけぇ。
出生地など、もっと大事なことがたくさんあるはずなのに、一番確かなのが身長というあたりが中国大陸5000年(仮)の神秘を感じなくもありません。
無理やり褒めてみました。

tomorroweye17

 

荊州で晴耕雨読の質素な生活 結婚もしている

とまぁ、こんな感じですので、諸葛亮の素性も実はハッキリわかっておりません。
幼い頃に父を亡くし、叔父に連れられて年の離れた兄弟と共に故郷から離れたらしいのですが、地名やいきさつが諸説分かれています。
まあ、西暦三ケタの時代だから仕方ないですね。

はっきりしてくるのが、三国志でも重要なエリアの一つ・荊州(けいしゅう)に移り住んだあたりからです。現在の中国では中央よりやや東、湖北省の一部にあたります。
ここで諸葛亮は晴耕雨読、つまり自ら畑に出て自給自足をしながら、勉強を続けるという質素な生活をしていました。結婚したのもこの頃だといわれています。

この話は「孔明の嫁選び」なんて故事成句になっていますが、奥さんの黄氏(名は月英とも)とはそれなりに良い夫婦だったようです。元々黄氏の父が「うちの娘は美人ではないけれど、頭はいいからきっと貴方の妻にふさわしいと思う」(意訳)と言って勧めた縁談だったので、諸葛亮のほうでもそのつもりで迎えたんでしょうしね。

 

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司馬懿&曹操と対照的な三顧の礼

結婚を通じて、三国志に出てくるさまざまな人物とも縁ができました。特に有名なところでいえば、諸葛亮とは「臥竜鳳雛」と並び賞された「ほう統」ですかね。文字コード制限のせいで相変わらず正しい字が出ませんが、「ほう」は「まだれ」に「龍」です。
まるで歴史の表舞台に立つ準備をしていたかのような諸葛亮でしたが、あるとき友人の徐庶(じょしょ)から、とある人物のことを耳にしました。

「この前劉備って人と付き合いを始めたんだけど、とてもいい人なんだ。漢王朝の末裔だというし、一度会ってみる気はないかい? あっちからここにくるって言ってるし」(意訳)

これが有名な「三顧の礼」のきっかけとなり、劉備は三回にわたって諸葛亮を訪れ、漢王朝再興のため力を貸してくれるよう頼んだのです。

余談ですが、この辺を司馬懿&曹操と比べると実に対照的ですよね。
曹操は司馬懿を仕えさせるために呼び出したものの、仮病を使われてキレて脅迫しましたから(超略)。
現代で置き換えると、「ベンチャーとはいえ一企業の社長を自宅に三回も呼びつけた」ような感じですから、劉備と曹操が逆の立場だったらとんでもないことになっていたでしょうね。三国鼎立状態にもならなかったかもしれません。

閑話休題。諸葛亮と劉備の話に戻しましょう。

【関連記事】諸葛亮孔明に振り回された司馬懿 曹家に頼られ、曹家を潰し、新たに晋を建てるまで

明の時代に描かれた三顧の礼の様子/Wikipediaより引用

 

「天下三分の計」で漢王朝を再興できます

劉備の腰の低さその他もろもろに惹かれた諸葛亮は、ノンビリした生活をやめていわゆる宮仕えを始めます。まだ劉備は腰を落ち着けていませんが、まあイメージということで。
それを見かねて……ではなく、諸葛亮は漢王朝再興を悲願とする劉備に、一つの戦略を提案しました。
「天下三分の計」です。

よほどコアな三国志ファンの方でもないと余計わかりにくくなると思うので、具体的な地名は挙げませんが、要するに「中国大陸をだいたい三つにわけて、ウチが一ヶ所取る。もう一つは曹操が取るに決まってるから、残り一つを制した人と仲良くして曹操をぶっ潰す。そうするとあら不思議! 漢王朝が再興できます!!」(超訳)という作戦です。

つまり、あくまで漢王朝再興のために一度中国を三分割するのであって、三つの国が出来るのは通過点にしか過ぎないという話なのですね。
残念ながら、現実にはもろもろの事件や戦によって、諸葛亮の狙い通りにはならなかったのですが……。

しかし、ここを理解しておくと、劉備と出会ってからの諸葛亮の行動が「最終的には、劉備の望み通り漢王朝を再興させる」ためのものだというのがよくわかります。
劉備の親戚(にあたるかもしれない)とある領主を攻めたのも、単身で敵とも味方とも言い切れない国に乗り込んで説得したのも、劉備の死後に曹操の遺産である魏を倒すことにこだわったのも、全部「劉備の望みを叶えるため」だからです。
ちょっと極論かもしれませんが、「これを見て泣かない奴は人間じゃねえ!」と言われる「出師(の)表」の文章からしても、忠義が執着といってもよさそうなほど強かったことが伺えます。

その気持ちは確かなものでしたが、いかんせん諸葛亮も人間ですから、完璧ではありませんでした。
中でも決定的に欠けていたと思しき点は、人を見る目にやや難があったことではないでしょうか。

 

劉備は馬謖の弱点を見抜いていた!?

三国志演義をお読みになった方、あるいは某無双シリーズでご存知の方も多いと思いますが、諸葛亮はたびたび対人関係で失敗をしております。
最もわかりやすい例は、「泣いて馬謖を斬る」の逸話でしょう。
これまた前後事情まで書くと長すぎるので割愛しますが、優秀だけれども実戦経験が不足していた馬謖という人を過信し、戦の要所に置いてしまったがためにボロ負けしたというものです。
そして、諸葛亮がその責任を取らせる形で馬謖を斬ったことから「法を守るためには、優秀な者が過ちを犯した場合でも例外にしてはならない」という故事成語になったのでした。

この馬謖という人物、実はずっと昔、劉備が今際の際に「馬謖は悪い者ではないが、自分を過信しているきらいがあるから、いざというときに用いてはならない」(意訳)と評価していたことがあります。もちろん、この言葉を聞かせた相手は諸葛亮です。
つまり、諸葛亮が劉備の遺言を忘れていた、もしくは自分の観察眼のほうが上だと思っていた可能性があるということです。

蜀の崩壊を予見していた(?)馬謖の存在/Wikipediaより引用

 

また、諸葛亮は劉備の死後、実質的に蜀の主ともいえる位置になったわけですが、配下のいざこざをうまく取りまとめることができませんでした。
劉備がいかに求心力を持った人物であるかがわかると同時に、諸葛亮がトップ向きではなかったことがここからもよくわかります。

これは(も)私見ですが、現代の会社でいえば、劉備が社長で諸葛亮が専務あたりだと、最も互いの実力を発揮できる立ち位置なのではないでしょうか。性格を含めて考えれば、関羽は副社長、張飛は本部長あたりですかね。

そんなわけで、劉備亡き後の諸葛亮は、忠義と責任感のあまりに「必ず魏を倒す!」ということしか見えなくなり、他の事まで気を回す余裕がなかったと思われます。
蜀に優秀な人物がいなかったわけではないのですが、国に対して人数が足りず、また団結もできていなかったため、それらの点でより勝っていた魏には勝てませんでした。

不幸中の幸いは、諸葛亮は蜀が攻め滅ぼされる前に亡くなっていることです。それでも相当無念だったことは間違いないですが。
せめて、諸葛亮の後進になりそうな人物を劉備が育てられていれば、また違った結果になったのかもしれません。

長月 七紀・記



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参考:諸葛亮/Wikipediaより引用

 

 

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