真田丸の真田幸村が全国デビュー!? 徳川秀忠を遅参させた上田合戦のあらまし

 

自分の能力を正確に認識するのは難しいものです。
が、他人のことならばわかるかというとそうでもありません。必要以上に買いかぶったり、過小評価したり、日頃どんな印象を持っているかで大いに左右されてしまいますよね。
それは実の親子であっても、例外ではないのかもしれません。

慶長五年(1600年)9月2日は、第二次上田合戦が始まった日です。

これだけだと何のこっちゃという感じですが、年号を見てピンと来た方もいらっしゃるのではないでしょうか。徳川秀忠が関が原本戦に間に合わなかった、vs真田家とのあの戦です。
本日はこの合戦について、事の経過を見ていきましょう。

【TOPイラスト・富永商太】

 

東軍全員で東海道を進むわけにもいかん

そもそも秀忠が中仙道を通って上田付近にやってきたのは、家康の指示によるものでした。

総勢十万にもなる(と思われる)東軍全員を一度に連れて行けるわけもありませんし、もし東海道を家康・秀忠一緒に進んで、関東や東北の諸将に背後を突かれてはたまったものではないですからね。
また、戦の経験がほとんどない秀忠に、武将として、そして後継者としての経験を積ませるというねらいもあったものと思われます。
もちろん一人で全部やれと言ったわけではなく、本多忠正や榊原康政など、家康が心から信頼する家臣をつけてのことでした。

が、ここで家康の誤算が二つ。

一つは、秀忠が血気盛んな若者であったということ。
後世から見ると、「二代将軍の割に地味」とか「恐妻家」のイメージが強すぎて、気弱な人に思われがちな秀忠ですが、むしろ戦の時にはかなりの武闘派です。
秀忠の遺骨には銃創がいくつも見つかっていますので、自ら積極的に戦うことを決めたとみていいでしょう。

もう一つは、家臣たちの間でも意見が分かれていたということです。
秀忠につけられた徳川家臣の中には、戦のベテランもいましたが、秀忠と同年代の経験不足な人もたくさんいました。
さらに、かつて家康に従って上田城で真田軍相手に負けた記憶が色濃い者もいて、そうした人々が「上田を素通りするなどもってのほか!」と言い出してしまったものですから、一戦しないわけには行かなくなったというわけです。

地味な印象だけど実は武闘派な徳川秀忠さん/wikipediaより引用

 

10行でわかる!かもしれない第二次上田合戦

結果、上田城に篭る真田昌幸に諸々の計略をかけられ、とうとう本戦に間に合わない日まで戦を続けてしまったというなんともしまらないオチになってしまいました。

ちなみに、このとき信繁(幸村)はまだ無名に等しい存在だったのですが、来年の大河ドラマ「真田丸」でどんな感じになるか見ものですね。そろそろ撮影が始まる時期ですし。

さて、前置きが長くなりましたが、戦そのものがどんな感じで進んでいったのかというお話に移りましょう。
いつも通りザックリな概要からどうぞ

【10行でわかるかもしれない第二次上田合戦】

9月2日 秀忠が小諸城(現・長野県小諸市)に入り、真田家へ降伏勧告を出す

3日 信濃国分寺で秀忠・昌幸が会見。昌幸が一度降伏の意思を示す
が、裏で真田家は武器・弾薬・食料など篭城の準備を進める

5日 秀忠、上田城で篭城戦の準備をしていることを知り激おこスティック(ry

6日 徳川軍、上田城包囲
昌幸・信繁が囮となって徳川軍を伏兵にかけ、大損害を与える

8日 徳川軍、兵糧攻めのため青田刈り(実る前の稲を刈ってしまうこと)をし、真田軍応戦
撤退と見せかけて徳川軍を上田城目前までおびき寄せ、
鉄砲一斉射撃→追撃フルボッコの華麗なコンボをキメる

徳川軍に家康から「9日までに関が原に来い」という手紙が届く\(^o^)/

だいたいこんな感じでした。

真田幸村さん/wikipediaより引用

 

そもそも真田軍も徳川の「足止め」を狙っていたワケで

8日に手紙を受け取った後、秀忠は押さえのための兵を残し慌てて関が原へ向かいます。

そして関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を犯し、家康からこっぴどく怒られたというわけです。

しかし、ある意味では秀忠の行動を評価することができなくもありません。もし秀忠が上田城を完全にスルーしていたら、真田軍に背後を見せることになるわけです。

先に「ここで足止めしてやろう」という目的を持って動いていたのは真田軍のほうなので、当初のねらい通りになったかどうかというと、やはり真田のほうに軍配が上がりますけども。

前にも何かの記事で書いたような気がするのですが、家康だって昌幸に散々やられたことがあるのに、戦の経験がほとんどないセガレに「うまくやれ」というほうがそもそもムチャな話ですよね。
家康が秀忠を過大評価していたなんてこともなさそうですし。

そのためか、「秀忠はそもそも中山道を押さえることを命じられていたので、遅参ではない」という説もあります。

しかし、このときの大叱責がなければ、大坂冬の陣のときに兵がほとんどついてこられないほどの超スピード行軍をすることもなかったはずですし、謎が深まってしまいます。

失敗から学ぶのは大切なことですが、それが気に病むレベルになるとマズイ、ということですかね。

結局、真田昌幸さんがヤリ手だったんすよね/wikipediaより引用

 

長月 七紀・記

参考:今日は何の日?徒然日記 真田氏の館三代録 上田合戦/wikipedia

 

 


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