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その日、歴史が動いた ドイツ 江戸時代

欧州にリアルなNIPPONを紹介したケンペルの『日本誌』 あのペリーも読んでいた

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神様を信じるかどうかは別として、世の中にはちょっとしたキッカケがその後に大きな影響を及ぼすということがままあります。
「あの日あの時あの場所で」みたいな感じですね。これ以上書くとJASRACに怒られそうなのでやめておきましょう。

就職や結婚、ビジネスチャンスなど、誰しも一生に一度くらいはそんな経験があるかと思うのですが、今から330年ほど前にも、そんな偶然の連続によって大きな功績を残した人がいました。

1651年(日本では江戸時代・慶安四年)9月16日は、エンゲルベルト・ケンペルという学者さんが誕生した日です。

誰もが知っている……という人ではありませんが、何となくこの人の名前を聞いたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。無理やり一言でまとめると、「行く先々で奇妙な縁に恵まれ、歴史に名を残した」人です。
さっそく生涯を追いかけてみましょう。

日本誌に掲載された江戸の地図・周囲には家紋が配されたりして、なんだかとてもスタイリッシュですよね/Wikipediaより引用

 

戦争でボロボロになり、魔女狩りも残る町で育った

ケンペルはドイツの中心より少し北西よりにある、レムゴーという町に生まれました。
当時のドイツは三十年戦争という国際戦争の舞台になってしまったおかげでボロボロになっており、それにともなって人心もひどく荒れていた時代。その表れの一つが、他の地方では下火になっていた魔女狩りが続いたことでした。ケンペルの叔父も魔術を使ったとか使わないとかいう容疑で処刑されてしまっています。

日本語だと「”魔女”狩り」なのでちょっとわかりづらいのですが、実際には社会情勢への不安に対する集団ヒステリーのようなものなので、対象は女性に限らなかったのです。

その辺については以前取り上げたことがあるので、よろしければどうぞ→過去記事:「お前、独り暮らしでネコを飼っているだろ?」「はい」「魔女だな、死刑」「男ですが?」「死刑!」【その日、歴史が動いた】

こんな荒んだ土地で生まれ育ったら、たちまち周囲の影響を受けてそういう方向に染まってしまいそうなものですが、ケンペルは逆に「平和が一番なのに、何で皆争うの?(´・ω・`)」(※イメージです)と疑問を抱きました。

また、彼は牧師さんの息子だったため、ラテン語を始めとした言語学や哲学、宗教を学ぶ機会を得ることができ、学者として成長していきます。
ドイツがまだ統一されていなかったこの時代に、あっちこっちの都市や外国に行って勉強を続けていますので、若い頃から周囲が認めるような優秀な人だったのでしょう。

 

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ロシアとイランにお使い……って、距離が離れすぎでは

そして30歳のとき、スウェーデンに渡っているのですが、これが彼の人生を大きく変えるきっかけになりました。
ここでドイツ人のとある博物学者と知り合い、さらにその人がスウェーデン国王により「ロシアとペルシア(現在のイラン)までお使いしてきて」(超訳)と命じられ、ケンペルも一緒に行くことになったのです。

どうでもいい話ですが、よくそんな離れた土地への使節を同じ人に任せたものですね。別々の人を同時に出発させたほうがいいと思うんですが、費用の問題でしょうか。世知辛いですねぇ。

まあそれはともかく、ケンペルは32歳で超距離のお使いをすることになりました。スウェーデンからまずロシアに向かい、その後ペルシアへ向かっています。
西洋に近いロシアよりも、全くの異文化であるペルシアのほうが彼の興味を引いたらしく、ペルシアには20ヶ月も滞在。もともと歴史を学んでいた人ですから、異国の文化や遺跡に大いに刺激されたようです。

有名どころでいうと、現在世界遺産に指定されている「ペルセポリス」という遺跡について、最初に記録したのがケンペルなのだとか。
ちなみに、当時のペルシアの首都・エスファハーンからペルセポリスまでは、現代の道路でも5時間近くかかります。当時はおそらくラクダで移動したのでしょう。
それだと何時間かかるのかまではちょっとわからなかったのですが、ケンペルがものすごい根性を持っていたことは間違いないですね。
その根性をどこかの神様が買ってくれたのか、ケンペルはペルシア滞在中にもう一つ、奇妙な縁を得ることができました。

 

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犬公方・綱吉の時代、日本にやってきた!

ペルシアにやってきていたオランダ東インド会社の人とツテをつくり、スウェーデンの使節団を辞めて、同社に入ってしまったのです。途中で勝手に計画を変更して、スウェーデン王からお咎めはなかったんですかね?

まぁそれはともかく、オランダ東インド会社の一員となったケンペルは、まずインドに渡航。一年ほど滞在した後、さらに日本行きの船に乗る機会を得られました。
ときの将軍は五代・綱吉でした。すでに「生類憐みの令」と総称される数々の法律のおかげで、庶民からの評価はダダ下がりになっていた頃のことです。

ケンペルはまず長崎の出島で働きました。その間、2回ほど江戸に出てきたことがあり、綱吉にも謁見。そのとき西洋式のダンスを披露していたそうなのですが、相手役はどうしたんでしょうね。彼の著作にそのときのものと思しき挿絵があるのですけれども、一人でポーズをとっているようにしか見えなくて、見てるほうがトゥライ。
いや、綱吉や幕臣にとっては興味深かったでしょうけども。

もっともケンペルはそんなこと全く気にしていなかったらしく、日本人の通訳を通して、日本の文物や風俗、社会に関する資料の収集に勤しみました。
天性の学者肌だったんでしょう。

 

日本についてまとめた『日本誌』を書こうとしたが……

ケンペルは41歳のときに日本を離れ、44歳のときヨーロッパへ戻っています。スウェーデンを出てから12年という長旅でした。
帰国してからも彼の勉強に対する意欲は変わらず、オランダの大学で医学博士を取っています。
しかし良かったのか悪かったのか、医師としての腕を認められて、とある貴族のお抱えになってしまったために、せっかくペルシアや日本で集めた資料を研究する時間がなくなってしまったそうです。

それでも少しずつ分析を進め、59歳のときにようやく『廻国奇観』(かいこくきかん)というペルシアについての本を出版することができました。
「想像や伝聞ではなく、実際に見たものを書く」というのが彼のポリシーで、この本により今までヨーロッパに知られていなかったペルシアの文化が知られるようになりました。

日本についても『日本誌』という本を書こうとしていたのですが、完成前にケンペルの寿命が尽きてしまっています。残念。
帰国してから30歳も年下のお嫁さんをもらったのがマズかったんでしょうか。夫婦円満とはいい難かったようですし。たぶん、よほど入れ込んでたんでしょうけども、誰か止めてやれと。

 

大英博物館の父が『日本誌』を出版

ケンペルの遺稿はその後、イギリスの収集家ハンス・スローンという人に売られ、世に出ることになります。
ちなみにこの人、大英博物館の父ともいえる人です。彼が自分のコレクションをイギリス政府に格安で譲ったのが大英博物館の発祥だそうで。どんだけだよ。

まあそれは余談ですが、そういう人の手に渡ったおかげで、『日本誌』はまず英語で出版されることになりました。その後フランス語・オランダ語・ドイツ語というように次々訳されていき、各国の知識人の間でブームを巻き起こします。

シーボルトも『日本誌』を読んで日本に興味を持ったといわれていますので、ヨーロッパでは「日本について知りたいならまずこれを読め!」という扱いだったのでしょうね。レオン・ド・ロニーなどの近代の親日家も、まずはこの本から入っていったのかもしれません。

また、シーボルトが『日本誌』に影響を受けたように、ペリーがシーボルトの本に影響を受けています。極端な話、「日本誌」がなければ日本の開国時期や通商相手も変わっていた可能性があるということですね。
そのきっかけが「ケンペルがたまたまペルシアで東インド会社の人と知り合ったから」というのは、何とも運命じみた因縁を感じます。

 

「鎖国」という言葉は、『日本誌』からの引用だった!?

実は『日本誌』は間接的に日本にも影響を及ぼしています。

『日本誌』の中には日本の政策についても書かれていまして、例えば「日本には、聖職的な意味の支配者と、世俗的な支配者の二人が国を治めている」と表現されています。天皇と将軍のことなのですが、言い得て妙ですよね。

同様に、対外政策についてもあれこれ書いてあります。しかし、オランダ語版の「『日本誌』が日本に入ってきたとき、とある蘭学者が「この部分長い(´・ω・`)」(超訳)と考え、文中から適当な言葉を探しました。

そこで当時の日本の対外政策を一言でまとめる言葉として、「鎖国」という単語を作ったのです。
最近「本当は鎖国なんてしてなかった」という話が度々出てきますけれども、そもそもこの単語自体が海外からの印象から来ている、というのも大きな理由なんですね。

ちなみにケンペルは、「鎖国」を好意的に見ていたようです。

上記の通り、ケンペルの故郷は三十年戦争でボロボロになってしまっていますし、そうでなくてもヨーロッパは基本的に他国に口や手を出すのが当たり前な時代でしたから、それを逃れうる手段を実行していた日本の政策が理想的に見えたのかもしれません。陸続きの国はホント大変ですね。

ヨーロッパでは陸続きでもない上に、いつも美味しいところをかっさらっていくイギリスの人が、ケンペルの著作物を出版してくれたというのがまた皮肉なところです。

ケンペルの想像図だそうです。ちょっと筧利夫さんに似てる?/Wikipediaより引用

 

長月 七紀・記

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参考:エンゲルベルト・ケンペル/Wikipedia 日本誌/Wikipedia

 

 




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