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ローマ その日、歴史が動いた 伊達家

日本人(支倉常長)が初めて出会ったローマ教皇 パウルス5世とは?

更新日:

 

一見何も関係なさそうなことが、実は繋がっていたってことありますよね。
歴史においては、日本史と世界史の接点もそんな感じなのではないでしょうか。あまり重要視されることはない気がしますが、思わず「へぇ~」と言ってしまうこともままあるでしょう。
本日もそんなお話です。

1552年(天文二十一年)9月17日は、後にローマ教皇パウルス5世となるカミッロ・ボルゲーゼが誕生した日です。

「誰だよ」という恒例のツッコミが聞こえてきそうですが、実は日本と間接的に関わったことがある教皇だったりしますので、しばしお付き合いいただければ幸いです。

パウルス5世/wikipediaより引用

 

幼いころにローマへ逃げ、聖職者の道へ

カミッロ・ボルゲーゼは、イタリア中部の町・シエナの貴族の家に生まれました。シエナはフィレンツェよりちょっと南にある町で、旧市街は「シエーナ歴史地区」という名前で世界遺産になっています。そちらをご存知の方も多そうですね。

元は他のイタリアの都市と同じく独立した国だったのですが、パウルス5世が生まれた頃はフィレンツェとスペインの間に挟まれ、フィレンツェに割譲されています。
そのためか、パウルス5世は幼い頃にローマへ逃げて聖職者の道へ入りました。

現代でもローマ教皇というと「就任したときからおじいさん」という感じですが、それは当時も同じでした。
次にパウルス5世の名がはっきり歴史に現れるのは、1605年のコンクラーヴェ(教皇選挙)のときです。ローマに来たのが何歳くらいのときなのかははっきりしませんが、53歳になるまで地道な下積み期間だったということになります。

家康とタメはるくらいの我慢振りですね。ローマ教皇になった人は大体同じような感じなので、パウルス5世に限った話ではないのですが。

 

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おシゴトは超真面目 ヴェネツィアと徹底的にやりあう

パウルス5世は表向きには「ローマ人」と名乗っていましたが、実質的には故郷をなくしたも同然の人です。そのためか、教会や世俗の権力者とあまり関わらなかったとか。
また、非常に厳格だということも好意的に見られていました。
そういった理由で、教会内での信頼を得ることができ、教皇に選ばれたようです。

教皇になって最初の仕事が、ローマに滞在し続けていた司教たちをそれぞれの担当教区へ戻らせることだったといいますから、マジメ振りがうかがえるというものです。司教というのはものすごく乱暴に言うと都道府県知事みたいなものなので、本来教区で生活していなくてはいけません。

が、当時は何かとこじつけてずっとローマにとどまっていた人が大量にいました。平たくいえばサボりです。そりゃ怒るわ。

パウルス5世のマジメぶりは対外政策についても発揮され、特に当時カトリック教会とケンカをしていたヴェネツィア共和国に対しては徹底的にやりあっています。
興味深いのは、ヴェネツィアの人々はキリスト教の神を信じていないわけではなかったということです。キリスト教にまつわる行事(ミサとか)は積極的に行っています。
じゃあ何で対立したのかというと、聖職者の扱いについての見解が異なったからです。

パウルス5世は「聖職者は世俗の法律にとらわれる必要はない」と考えていたのに対し、ヴェネツィアでは「いやいやいや聖職者といっても人間だし、ちゃんとウチの法律に従ってもらわないと」という考え方でした。
ここまで意見が正反対だとそうそうカタもつかず、一時パウルス5世はヴェネツィアを破門しているくらい激おこでした。
現代人からするとヴェネツィアのほうが正しいように思えますが、まあ昔の話ですから。

 

ガイ・フォークス事件にも絡んでいた!?

「退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!」
まさにそんな感じの教皇だったので、他の国とのトラブルもままありました。
デカいところだと、イギリスの国王とお偉いさんの暗殺未遂事件である「火薬陰謀事件」にも噛んでいるとかいないとか疑われて、やっぱりもめました。
当コーナーでも以前取り上げた、ガイ・フォークスの事件のことです。その変のお話はこちら→過去記事:センターGUYならぬカトリックGUY! 英国ウェストミンスター宮殿の爆破を企てる 【その日、歴史が動いた】

火薬陰謀事件にはイギリス国教会とカトリックのゴタゴタが大きく絡んでいたので、「カトリックのトップが無関係なわけねえだろ!」と思われてしまったのでした。

ぶっちゃけた話、パウルス5世はこの件については完全にノータッチだったのですけれども、イギリス国内のカトリック信者のために「国王に逆らわないよういい含めるから、信仰を守ることだけは許してやってください」(意訳)と弁護しています。
残念なことに、時のイギリス国王がその後厳しい対応をしたため、あまりスッキリしない方向へ進んでいってしまったのですが……まあ、それはまたいずれ。

 

「地動説を主張するのは感心しない」

また、新しいものにもあまり柔軟な考えが持てないタイプの人だったようです。
ガリレオ・ガリレイが教会にしょっぴかれた頃の教皇がパウルス5世なのですけれども、「地動説を主張するのは感心しない」と言っています。教皇という高位どころか聖職者のトップが直接話しただけ真摯ですけどね。

が、その数少ない例外といえることが2つあります。

一つは、非常に近い時代の聖職者の列福を積極的に行ったことです。
列福というのは「将来この人を列聖して聖人にするかもよ」(超訳)という段階にすることで、カトリック教会による厳しい審査が長期間行われます。
そこから聖人になるまでには、さらにン百年単位の時間がかけられることも珍しくありません。

わかりやすい例でいうと、ジャンヌ・ダルクは1431年に火刑に処されていますが、列福は1909年・列聖は1920年です。まあ彼女の場合は歴史からも忘れられてしまっていたので、列福までが500年近くあった代わりにその後列聖されるまでの時間は短くなっていますね。

 

伊達政宗が派遣した支倉常長が謁見していた!?

そしてもう一つは、日本人への対応です。

なんでこの時代に日本人とローマ教皇が関係してくるんだと思われた方もいらっしゃるでしょう。
実は、日本による超長距離のお使いこと「慶長遣欧使節」が会った教皇というのがパウルス5世なのです。
支倉常長などは謁見してもらえたそうなので、通訳は挟んだにしろ、「日本人が初めて会ったローマ教皇」ということになりますね。

日本に戻ってからは不遇の支倉常長さんも、江戸幕府の政策次第では一躍注目されていたことでしょう……/wikipediaより引用

 

当時の常識でよくアジア人に直接会ってくれたものです。常長がいつ頃キリシタンになったのか、ハッキリしませんが、長い旅路の間に敬虔な信徒になっていたからこそ、パウルス5世も会う気になったのでしょうか。

ちなみにこのとき、常長が鼻をかんだ懐紙(当時のティッシュ&メモ帳代わりみたいな紙)をバチカンの人々が「なんて合理的なんだ!」と感動し、博物館に展示するほど大事にしていたといわれています。

……使う前の紙をもらえばいいと思うのですが、何か他に理由があったんですかね。

その後、常長が帰国した頃には日本でのキリスト教は(´・ω・`)なじょうたいになってしまっていたので、パウルス5世やバチカンとの付き合いもそこで途切れてしまいました。

もし禁教されていなければ、その後も常長のように、ローマ教皇へのお使いをするようになっていたのかもしれませんね。

長月 七紀・記



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参考:パウルス5世_(ローマ教皇)/wikipedia 支倉常長/wikipedia

 

 

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