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東海道五十三次之内日本橋/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

歌川広重の「東海道五十三次は爆発だ!」 そしてヒロシゲブルーは生まれた

更新日:

「芸術は爆発だ!」
というのは某画伯の名言ですが、芸術家の思考回路も爆発というか化学反応を起こしているような気がするのはワタクシだけではないでしょう。

画家や作曲家の強烈なエピソードには事欠きません。「何がどうしてそうなった」と言いたくなるような人も珍しくありません。
本日は我らがニッポンが誇れる芸術家の中から、割ととんでもない転身を遂げた人のお話です。

安政五年(1858年)10月12日は、江戸時代の画家として有名な歌川広重が亡くなった日です。

 

暗記法→ゴミ(五十三次)の広重、ミロ(三十六景)の北斎

有名とはいえ、特に絵に関心がないと、葛飾北斎と間違えてしまうという人も多いのではないでしょうか。江戸時代の文化史はややこしいので仕方ありません(´・ω・`)

テストに出そうなところだと、「東海道五十三次&歌川広重」(ゴミ53の広重)、「富嶽三十六景&葛飾北斎」(ミロ36の北斎)と覚えるのがいいですかねえ。「橋の絵が広重」、「赤富士と波の絵が北斎」とか。

あるいは、彼らの生涯から覚えるのもいいかもしれません。

歌川広重というのはいわゆる雅号であって実名ではないのですけれども、例によって有名なほうで統一させていただきますね。

広重の死絵/Wikipediaより引用

 

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12才で火消しを継ぐも、父が亡くなり絵の画業へ飛び込む

広重は、江戸の火消し役人の家に生まれました。
父親が早くに隠居したため、12歳のときに広重が跡を継いでいます。が、その年のうちに父が亡くなると、広重はかねてから興味があった絵を学びたくなり、歌川派の祖・豊春に弟子入りしようとします。
この辺から常人とはかけ離れた芸術家の思考回路が垣間見えますね。

しかし「ウチは今満員だから、弟子のところへいってくれい」と言われてしまったので、その通りに豊春の弟子・豊広のところで絵を習い始めました。
今では広重が有名すぎて他の人はあまり知られていませんけれど、この三人の絵を見比べてみると「ああ、師弟だなあ」という感じがしますので、ご興味のある向きはぜひ。

広重はしばらくの間、仕事と画業、二足のわらじを履いていました。そして23歳のとき正式に役人を辞め、絵の道で生きていくことを決意します。
当時の身分制度やら社会風習からすると、結構アグレッシブというかなんというか。ちなみに、家督については親戚に譲っているので、その辺は丸く収まったようです。皆さんよく納得してくれたものですね。

東海道五十三次之内 庄野/Wikipediaより引用

 

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絵師として正式に独立したのは36才になってから

かくして画家として歩み始めた広重も、一朝一夕にあの素晴らしい絵を描けるようになったわけではありません。
歌舞伎役者や舞台を楽しむ人々を描いた「役者絵」や、現代のブロマイドともいえる「美人画」なども書いていた時期もありました。
そしてそのうち「花鳥図」という風景画に近いものを手がけていくようになります。”花鳥”図だからといって花や鳥しか描いてはいけないというわけではなく、虫や小動物などもおkだったので、風景画+生き物の絵といったほうがわかりやすいでしょうか。

そこで何か「ティン!」ときたのか、花鳥図を始めてからは風景画に絞って作品を生んでいくことになります。お師匠様の豊広が同じ時期に亡くなっているので、何かしら遺言や思うところがあったのかもしれません。
実はこのあたりまで公には役人を辞めていなかったのですが、36歳になって正式に絵師として独立しています。後継者がいたから、幕府も何も言わなかったんですかね。

そして、この年に東海道を旅したことが、「東海道五十三次」制作のきっかけとなりました。
これが大ウケ(死語)したため、広重の絵は一気に世に知られるようになっていくのです。

東海道五十三次之内 蒲原/Wikipediaより引用

 

青の美しさで世界中を魅了したヒロシゲブルー

それは日本国内だけではなく、海外でも同じでした。
モネやゴッホなど、この時代の西洋の画家が広重と似たような構図の絵を描いています。

ゴッホは特に広重の絵の模写を多数行っており、何とかして技法を学び取ろうとしていたのではないかという執念が感じられるような気さえします。
もしもゴッホが広重に会えていたら、もう少し希望を持つこともできたのかもしれません。広重が亡くなる5年前にゴッホが生まれているので、時代的には無理なんですけども。

また、広重の絵で水や空を示した青色の美しさは、ヨーロッパの人々を大いにひきつけ、「ヒロシゲブルー」と呼ばれるほどでした。
原料の鉱物はヨーロッパ産だったりするんですけどね。広重や北斎の時代に清経由でイギリスから大量に日本へ入ってきたので、二人とも安価な絵の具として多用したようです。

世界中で評価されたヒロシゲブルー「京都名所之内 淀川」/Wikipediaより引用

 

化学の話になるので省略しますが、「プルシアンブルー」などの「◯◯ブルー」もヒロシゲブルーと原料の鉱物は同じです。「フェルメール・ブルー」だけが違う原料なのだとか。
まあ、青というのは世界中で好まれている色だそうなので、それを美しく使いこなした人に対する尊敬の念もこめられているのでしょう。
「◯◯ブルー」という文字だけを眺めていると戦隊モノみたいですね……どうでもいい話でゴメンナサイ。

広重の辞世の句は「東路へ 筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見ん」と伝わっております(異説もあります)。

「死んだら極楽浄土の名所を見てみたい」という意味のようですが、それより「アナタの絵がヨーロッパ(西の国)で評価されてまっせ」と伝えたいところですね。
まぁ、本人は名声よりも「良い景色を見たいだけなんじゃよ」と思っていたのでしょうけど。

長月 七紀・記
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参考:歌川広重/Wikipedia

 




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