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その日、歴史が動いた 画家

ダリも傾倒した天才画家フェルメール 和蘭の斜陽と共に青が散る

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どんなにスゴイ人でも、関心のない相手にとってはただの人……というケースは、日常でもよくありますよね。
歴史においても、権力闘争や戦争で敗れ、消えたも同然になっている人は珍しくありません。そしてそれは、芸術の分野でも似たようなものでした。

1632年(日本では江戸時代・明正九年)10月31日は、画家として有名なヨハネス・フェルメールが誕生した日です。

「牛乳を注ぐ女」や「真珠の耳飾りの少女」などでよく知られていますが、実は彼は、一時世間から忘れられたような存在になっていたことがあります。
どういう経緯だったのか、彼の一生を追いかけてみましょう。

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【TOP画像】ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」/Wikipediaより引用

 

幼少の頃から才能を発揮!していたワケでもなく

ヨハネスは、オランダ西部のデルフトという街で生まれました。国際司法裁判所があるハーグや、港湾都市として有名なロッテルダムの中間辺りです。
そういった立地故か、ヨハネスの父はいろいろな商売をしていました。絹織物職人、パブ兼宿屋のオーナー、画商……。と、どんな関連性なのか全く見えない職選びでしたが、人の出入りが激しい土地と考えれば納得できなくもないですね。「いかなるビジネスチャンスをも見逃すまい!」という執念じみた意地を感じます。

他の多くの画家や芸術家が幼少期から才能を表していたのとは対照的に、ヨハネスは成人・結婚した後に絵を描くようになりました。

ただし、結婚までの道のりは簡単ではありませんでした。というのも、奥さんのカタリーナがカトリックでヨハネスがプロテスタントだったのです。

これに対し、カタリーナの母マーリアが大反対。
しかし二人の意思は変わらず、知り合いの画家に立会人をやってもらって結婚を強行します。

数年後にはカタリーナの実家へ婿入りするような形で生活するようになっているので、その後は丸く収まったようですね。ヨハネス夫婦には15人も子供がいたので、どちらにしろ実家に頼らざるを得なかったという面もありましたが。いずれにせよ、家族計画がユルユルすぎではないかなぁ、と。

画家というより音楽家の肖像画みたいすね。人によっては志茂田景樹さんにも見えたりして……/Wikipediaより引用

 

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当時高級品だった「青い絵の具」を惜しみなく使えたから

彼らの家族は、1655年に父の経営していたパブ兼宿屋を継ぐと、少しずつ収入も安定していきました。これが、彼の作品の特徴である「フェルメール・ブルー」を生み出すことになります。

「フェルメール・ブルー」とは、当時超高級品だった青い絵の具を、ヨハネスが惜しみなく使ったことから付けられたあだ名です。
この頃、青い絵の具というのは天然の鉱石から作っていました。ラピスラズリという石です。パワーストーンなどがお好きな方はご存知ですかね。

この石はヨーロッパでは産出せず、当時一番近い産地はアフガニスタンでした。しかしアフガニスタンは完全な内陸国ですから、陸路を取ろうが海路を取ろうが、ヨーロッパへ運ぶには相当の手間とお金がかかります。
だいたいの場合海路で運ばれたので、ラピスラズリから作られた青い色の絵の具を「ウルトラマリン」=「海越え」と呼ぶようになりました。

ラピスラズリには他の鉱物や金属が交じることが多いため、青色を得られる部分がさらに減るということも高級品になってしまった原因かと思われます。
また、藍銅鉱(らんどうこう)=アズライトという鉱石も青の絵の具として使われていました。こちらもフェルメールの時代には産出量が減っていたため、やはり高級品だったとか。
現在、青い絵の具を苦なく使えるのは、もう少し時代が下ってから合成染料・顔料が発展し、青色系統がたくさん出てきたためです。
それまでは高価でなかなか使えなかったからこそ、皆一生懸命になって開発したんでしょうね。

有名な『牛乳を注ぐ女』なんて、もう青がバッチリ映えてますもんね/Wikipediaより引用

 

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オランダの経済が停滞し、家族に負債を残して死亡

そんなこんなで、ヨハネスの時代には青い絵の具をためらいなく使える画家というのはそうそういなかったのです。

となると「青」が一角を占めるような絵は、それだけで注目を浴びますよね。もちろん、ヨハネスの絵がもともと素晴らしいものであったことは疑うべくもありません。ただ、「青」が目を引かなければ、彼の作品は完全に歴史の中へ埋もれてしまっていたでしょう。

というのも、ヨハネスの努力と反比例するかのように、オランダという国の状況が厳しくなっていったからです。

この頃オランダでは経済が停滞し、皆が娯楽品にお金を使わなくなって、当然ながら絵も売れなくなり、最大のパトロンだった投資家も亡くなるという地獄の三連コンボをくらったのです。ヨハネスは完全に首が回らなくなってしまい、そしてその状況を改善できないまま1675年にこの世を去ってしまいました。

妻カタリーナは負債とたくさんの子供を抱えて頑張りましたが、やはりこの時代に女手一つですべてを何とかすることはできません。破産申告をすることで管財人に債務処理を依頼し、その後のカタリーナの生活は暗澹たるものだったようです。

 

尊敬しているのかしてないのか常人には判断しがたいが

こうした世の無情により、ヨハネスの作品は長い間、世間から忘れ去られていました。

17世紀の間はまだ彼の名を記憶していた人がいたので、それなりの高値がつくこともありましたが、それを過ぎると急速に「誰それ」といわれるようになってしまいます。
これはヨハネスが他の仕事もしていたために寡作で済んでいたこと、しかも作品の買い手が個人的なコレクションにとどめていたことが原因でした。画家本人が社交的か、作品が世に出回らなければ知名度も上がりませんからね。

しかし、時が流れて一般の人々を描く画家が増え始めると、「コイツの絵もなかなかいいんじゃね?」と、ヨハネスを再評価する人々が現れ始めます。

同業者で特に傾倒していたのは、サルバドール・ダリ(過去記事:サルバドール・ダリの人生とは? 頭の中を見てみたい人No.1アーティスト【その日、歴史が動いた】)。

あのダリさんもリスペクトしていたなんて!?/Wikipediaより引用

 

「テーブルとして使われるフェルメールの亡霊」「フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作」という、尊敬しているのかしてないのか常人には判断しがたい作品を描いています。ダリだから仕方がない。

表現方法はともかく、同業者に評価されるというのはどの業界でも名誉あることですから、草葉の陰で本人も喜んでいたかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:ヨハネス・フェルメール/Wikipedia きこえとことばの発達情報室

 

 




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