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その日、歴史が動いた 北条家

北条氏綱vs里見義豊「鶴岡八幡宮の戦い」 自分で焼いて自分で修理のオマヌケ感

更新日:

 

江戸が大都市になったのは、家康が関東に移封されてからのことだというのは有名な話ですよね。
では、なぜそれ以前の江戸や関東については、歴史の授業でほとんど扱われないのでしょう?

答えはいたって単純な話で、ややこしすぎるからです。

応仁の乱の前から鎌倉公方(足利一門の関東担当者)vs関東管領上杉家(足利本家の部下)の争いが続いたことがまず一つ。
そして、それぞれの勢力に地方豪族がつくわ、同じ一族でも割れて別々に味方するわで、大きな勢力が生まれにくかったことが一つ。
そして、同じ「公方」でも、あっちに逃げたり新しくやってきたりで、こんがらがることが一つです。

例によって乱暴に現代のイメージに置き換えると、「本社の社長の一族が地方の子会社の社長になったら、本社からの監査役ともめにもめ、あっちこっちの部長・課長・係長も社長派と監査役派に分かれてすったもんだ」みたいな感じですかね。
そのため、一つ取り上げるだけでも延々と用語と血縁関係の説明をしなくてはならない有様です。こんな感じに→過去記事:関東支配と上杉家を巡る名門バカ+下克上男のややこしすぎる争い【その日、歴史が動いた】
当コーナーでもかなり省略していますが、ほぼ箇条書きに等しい日本の歴史教科書でこんなもん書いたら、歴史の授業だけ出席率が数%になってしまうことでしょう。

 

グダグダの隙をつき関東の雄・北条氏が台頭

このgdgd(超略)の中、台頭してきたのが後北条氏です。

新興勢力だったから割れずに済んだのかもしれない彼等のシマは、現在の神奈川県。関東一帯を支配下に収めるには、少々南及び西寄りでした。そのため、関東のあっちこっちの豪族たちと争うことになります。

そんな戦の一つが、大永六年(1526年)11月12日に起きた、鎌倉・鶴岡八幡宮の戦いです。

後北条氏(氏綱)に対する相手は、千葉の大名・里見氏(義豊)でした。

本拠地が千葉県ですから、房総半島から三浦半島までご苦労なことですが、船を使えばすぐですしね。はっきりした線はないものの、戦国版アクアラインとでもいえましょうか。
鎌倉へ向かったときは数百隻の大船団だったそうですから、まさに命運をかけた戦いだったでしょう。これで海戦だったら、もっとロマンがあって有名になったかもしれません。

実際には里見軍が三浦半島に上陸して鎌倉へ向かい、現在の鎌倉市内が主な戦場になりました。

 

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「やばい!コッチが悪者にされちゃう!」って、おい……

戦の混乱の中で、里見軍は鶴岡八幡宮に乱入するわ、宝物を奪うわ、建物を壊す&燃やすわで、何をしに来たのかわからなくなるような有様だったといいます。
一応、もう少し北にある玉縄城を味方と挟み撃ちにする予定だったそうで。それなら余計に鶴岡八幡宮へ構ってるヒマはないのでは……。

しかし、ここで鶴岡八幡宮に戦火が燃え移るのを見た里見軍は、「やっべあそこ燃やしたらこっちが悪者にされる!」と、急遽兵を引いて玉縄城へ向かっています。なぜ乱入した時点で気づかないのか……。

まあ、こういうときって大将が止めようとしても兵はすぐに止まれませんから、ある程度放置して、適当なタイミングで引き上げさせるつもりだったのかもしれません。そこに火の手が見えたので、慌てて予定を早めた可能性もあるといえばありますね。

元をたどれば源義朝に行き着く里見氏としては、ご先祖様ゆかりの神社を焼いてしまったことが相当打撃になったらしく、その後も大した戦果を挙げずにさっさと引き上げてしまっています。数百隻も動員したのに(´・ω・`)

 

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玉縄城への途中に鶴岡八幡宮はあるんですけどねぇ

そもそもなぜ、鎌倉を通るのに、鶴岡八幡宮へ迷惑をかけないで済むと思えたのでしょうか。

地図を見ていただくのが一番わかりやすいのですが、鶴岡八幡宮から玉縄城までは、現在の道路で6km程度しか離れていません。グーグルマップ先生だと「玉縄城」では出てこないのですが、だいたい清泉女学院という学校があるあたりが玉縄城だったところです。

まあ、兵にとって主家のご先祖のゆかりの地なんてどうでもよかったでしょうから、なるべくしてなったということになりますかねえ。

八幡原(川中島のハイライトになったといわれている所)といい、八幡神に縁のあるところは戦が絶えません。武家の神様なので当たり前といえば当たり前なのですけれども、やたらと戦をスルーする富士川近辺と好対照です。

それにしても、鶴岡八幡宮は貧乏くじ引き過ぎな気がします。源実朝の暗殺事件、関東大震災での社殿倒壊に続いて、近年ではシンボルだった大銀杏が倒れてしまったりと、度々災難の舞台になりながらも、神社としての名前と場所が残っているあたり、神のご加護の現れでしょうか。

ちなみにその後、後北条氏が主導して「鶴岡八幡宮再建しようぜ!」と言い始めたとき、里見氏も協力せざるを得なくなりましたとさ。

盗んだバイクで走りだした翌朝にそのバイクを返しに行くくらい恥ずかしいですね。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記 鶴岡八幡宮の戦い/wikipedia

 

 




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