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フランス その日、歴史が動いた ロシア

ナポレオンをフルボッコにした捨て身のモスクワ焦土作戦 アレクサンドル1世が怖ぇ

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歴史を後世から見ていると、「ここでもしこうしていたら、後の人がもっと楽だったかもしれないなあ」なんてことがありますよね。それこそが歴史を学ぶ意義でもあるのですが。
本日はそんな感じの例の中でも、惜しいところが目立つとある君主のお話です。

1825年(日本では江戸時代・文政八年)11月19日は、ロシア皇帝・アレクサンドル1世が亡くなった日です。

エカチェリーナ2世の孫にあたる人ですが、それ以上にスゴイのは「ナポレオンを追い返した皇帝」ということ。なんせ70万からいた仏軍を最終的には5,000にまで減らしたというのですから、人道的な是非を問われるレベルで……。

例によって、まずは本人の生い立ちから見て参りましょう。

アレクサンドル1世。ロシアだけにヒョードルに似てる?それとも英国人のルーニー?/wikipediaより引用

 

教育係たちの意思統一がバラバラのまま育てられ

アレクサンドル1世は、祖母であるエカチェリーナ2世のもとで育ちました。

エカチェリーナ2世と、アレクサンドルの父・パーヴェル1世の仲が良くなかったからです。ちなみに、パーヴェル1世も義理の祖母にあたるエリザヴェータに育てられています。だからこそ親子仲がうまく行かなかったんですがね……。

まあそんなこんなの上、アレクサンドルの教育係たちは意思や思想が統一されていなかったためか、冷笑的な態度の目立つ人物になってしまいました。
なんせ将来皇帝が確実な人物に共和主義・自由主義的な教育をしてしまったのですから、矛盾が過ぎるというものです。

やがてエカチェリーナ2世が亡くなり、パーヴェル1世が即位してたった五年で貴族たちの反感を買って暗殺されると、アレクサンドルが即位して新たな皇帝となりました。
暗殺にはアレクサンドルが一枚噛んでいたともいわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。それも当然といえば当然ですけれども、パーヴェルとアレクサンドルの親子仲が悪かったという話も特にないんですよね。

 

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貴族の若手たちを集めて秘密委員会を設立!

即位したアレクサンドルはまず、貴族たちの中でも比較的若手で親しかった人物たちを集めて「秘密委員会」という組織を作りました。
何やら物騒な名前ですが、これはアレクサンドル自身が議長となって、立憲君主制の導入や農奴制廃止、教育制度改革という近代国家化への方法を模索するというものです。もしもこれらの政策が全てアレクサンドルの時代に成功していたら、その後のロシアと世界は全く違う道を歩んでいたかもしれません。

秘密委員会はとても先進的な会でした。

が、やはり保守派の貴族たちから「何言ってんだこいつ」(※イメージです)的な受け取り方をされてしまって、数年で解散せざるを得ませんでした。
その後、別の貴族が責任者となって再度改革を試みたこともありましたが、若手だったことや、改革そのものに反対する貴族が多かったことで、これも成功とは言いがたい結果になっています。

アレクサンドルの本心としてはおそらく、内政改革を少しずつでも進めたかったものと思われます。
しかし、世界情勢がそれを許しませんでした。ヨーロッパではナポレオンが台頭しており、ロシアも他人事ではいられなかったのです。

 

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憧れていたナポレオンが徐々に怖くなり……

外交に力を注ぐためには、国内でいざこざを起こしているわけには行きません。アレクサンドルは一時改革を取りやめました。

アレクサンドルは当初ナポレオンに惹かれていたようですが、フランスへ死者に出した貴族が「アイツそのうち独裁者になりますよやべーっすよ」(※イメージです)と報告したことで、見方を変えます。
特に、ナポレオンがフランス王家だったブルボン家の人を処刑してからは、恐怖感すら抱いていたようです。もしロシアにナポレオンが来たら・もしもロシアで革命が起きたら、処刑されるのは自分ですからね。
その予感は、残念ながら百年ほど後に現実のものとなってしまうのですけれども……。

フランスと戦うことを決めたアレクサンドルは、フランスとの国交を断絶してイギリス・オーストリアと第三次対仏大同盟を結んで、ナポレオンと戦います。
しかし、ノリノリだったナポレオンにはすぐに勝てず、講和を結んで対仏大同盟から一時離脱せざるを得ませんでした。

そして今度は、ナポレオンの要請によってイギリスと戦うことになります。英露戦争というのですが、ときどき小競り合いをした程度のものだったので、あまり世界史で話題になることはないようですね。兵にとっては実に気の毒な話ですが。

ロシアに攻め入る前まではノリノリなナポレオン/wikipediaより引用

 

70万の仏軍がやってきた! モスクワは焦土でオケー!

そうこうしているうちに、再びフランスとロシアの関係が悪化します。イヤイヤ結んだような講和でしたから、まぁ数年でポシャるのは目に見えていたでしょうね。

再びイギリスと手を組んだロシアは、今度は自領内でナポレオンを迎え撃つことになります。
ナポレオンのロシア遠征です。ロシアから見ると防衛戦なので、「祖国戦争」とも。他の戦争と区別するため、開始された「1812年」という西暦年をつけて呼ぶこともありますね。

フランス軍は約70万人という大軍でロシアへ進軍し、一時はモスクワを占拠するほどでした。

が、アレクサンドルの狙いは首都防衛よりもフランス軍の壊滅にありました。
自らモスクワの町へ火を放つよう命じ、フランス軍に食料や拠点となる建物など、何もかも渡さないようにしたのです。ロシア名物・焦土作戦ですね。

季節は冬になりつつあり、厳しい寒さと雪にフランス軍の兵も馬もバタバタと崩壊。
ナポレオンは三度和平を申し出ましたが、「計画通り」(※イメージです)状態のアレクサンドルが聞くわけはありません。

 

撤退時には10万に減少の仏軍 そして5000人に……

モスクワから撤退を始めた時、フランス軍はたった10万人になっていたといいます。

数そのものは多いですが、約1/7に減っていたと考えると「なぜもっと早く撤退しなかった」とツッコミたくなってきますね。
そもそもこれだけの大軍を一気に引き上げられるはずがないのですから、少しずつでも退却させておけばよかったのに(´・ω・`)

ちなみに、馬のほうが先に食糧不足でガンガン餓死したり食料にされてしまったため、騎兵が歩兵に&荷物や兵器が運べないという最悪なgdgd状態になりました。
ナポレオン本人が生きて帰れたのが不思議なほどですが、これをわかっていて焦土作戦&冬を待ったアレクサンドルが恐ろしいですね。
フランスに帰り着いたとき、兵はたった5000人になっていたそうです。生存率0.007%ってどういうことなの……。

とはいえ、ロシア側も無傷ではありませんでした。
戦場となった地域のロシア人も数百万人が犠牲になったといわれています。
その代わりに、アレクサンドルは対仏大同盟の復活という成果を手に入れました。他のヨーロッパ諸国が、「ナポレオンを倒すことができるかもしれない」と考え始めたからです。

モスクワから帰国時のナポレオン。なんとも侘びしい姿で……/wikipediaより引用

 

仏軍に勝ったロシアだが、自国の状況に焦りを感じる人も

ロシア遠征までのナポレオンといえば、ほとんど負けたことがありませんでした。

例外はトラファルガーの海戦(過去記事:ネルソンタッチなる戦法がやべぇ! ナポレオン戦争・トラファルガーの海戦【その日、歴史が動いた】)ですが、これは海戦でありナポレオン本人は現地にいなかったので、イギリスが自国防衛に成功した以外の意味がありませんし。

兵を大幅に失ったナポレオンは、再び包囲されて絶体絶命に陥ります。
そのうち部下にも裏切られ、無条件に退位させられました。入れ替わるかのようなタイミングで、アレクサンドルは兵を率いてパリへ入っています。
この時も「計画通り」な顔をしてたかもしれませんね。

その後、アレクサンドルはウィーン会議で主導権を握ろうとし、理想主義な彼に賛同する他国はほとんどおらず、(´・ω・`)な結果になります。
その代わり、領土としていたポーランドやフィンランドに対し、ある程度の権力や議会を与えて先見性を示そうとしました。

一方、ロシア国内では少しずつ自国の状況に焦りを抱く人が増え始めました。ヨーロッパの他の国に比べて、遅れていることを実感したからです。

 

大学を閉鎖したり学問を禁止したり

古今東西、こういうときには漸進派から急進派まで入り乱れるもの。後者の最たる例では、アレクサンドルの暗殺と帝政の廃止を目論む者まで現れました。

このせいでアレクサンドルは自由主義弾圧を始め、大学の閉鎖や一部の学問の禁止など、どんどん他国と逆行するような政策を取ってしまいます。
ロシアとの戦争で荒廃した国土の回復なども試みたものの、人選ミスのためか成功とは言いがたい結果に終わりました。

何もかもうまく行かない――。そんな状況に絶望したのか、アレクサンドルは少しずつ政治から関心を失っていきます。
信頼する貴族に仕事を任せ、半ば引きこもりになり、聖職者を呼び寄せては信仰の世界に生きる素振りすら見せてしまいます。
日本にも「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、どうにもならなくなると見えないものに縋りたくなるものなんですね。ロシア皇帝と聖職者というと、これまた嫌な連想をしてしまいますが、アレクサンドルはこのせいで命を落としたわけではありませんでした。

 

旅先でチフスにかかり48才で死亡

1825年の秋、肺病にかかっていた皇后エリザヴェータとともに、アレクサンドルは黒海北方の町・タガンログへ西洋に出かけました。

この二人は長らくまともな夫婦生活をしていなかったのですが、この頃には和解しお互い慈愛を持って接するようになっています。
しかし、遅すぎた新婚旅行と言えなくもないこの旅行で、付き添いだったはずのアレクサンドルがチフスにかかり、旅先で亡くなるという悲劇が起きてしまいます。

行幸中のタガンログ離宮で急逝したアレクサンドル1世/wikipediaより引用

 

アレクサンドルはまだ48歳でしたから、暗殺疑惑も当然囁かれました。
または、「アレクサンドルは、死んだふりをして世俗の一個人になった」ともいわれています。

真相はやはりわからないものの、アレクサンドルが後継者をはっきり指名しないまま世を去ったために内乱が起き、ますますロシアは他国に後れを取ることになりました。

ロマノフ王朝の最後を知っていると、せめてこの時代から少しずつ近代化していれば、助かったんじゃないかとも思ってしまいますね。

長月 七紀・記

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参考:アレクサンドル1世/wikipedia

 

 




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