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フィリップ四世/wikipediaより引用

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フランス その日、歴史が動いた 欧州

二つ名だけはイケてるフィリップ4世……端麗王やら寡黙な王やら敬虔な王やら

更新日:

世の中は複雑なことばかりですが、超訳すると小学生の屁理屈にしか聞こえないようなことも多々存在します。
特に歴史、さらに近代以前の場合はそんな話ばかりといっても過言ではない気が……。本日もそんな感じの実に大人げない人のお話です。

1314年(日本では鎌倉時代・正和三年)11月29日は、フランス王フィリップ4世が亡くなった日です。

ヨーロッパの王様には厨二的な二つ名がつきものですが、この人は「端麗王」「寡黙な王」「敬虔な王」などなど盛りだくさん。
まあ、どれも相反するものではないので「口数が少なく信心深いイケメン」と考えればおかしくはないのですが、やったことからするとそうとも言いがたい感じがします。
さっそく見ていきましょう。

 

王にならない立場だったのが、トントン拍子に勢力拡大

フィリップ4世は、元々王になるはずのない立場でした。しかし、幼いころに長兄が亡くなって王太子になり……って、この手の話は当コーナーで何回目ですかね。
16歳のとき、フアナ1世という女性と結婚し、彼女の領地だったシャンパーニュ(現在シャンパンの産地になってるところ)とナバラ(現在のスペイン北東部)も勢力下に吸収。
さらに、17歳で父のフィリップ3世が亡くなって王位を継いでします。
このトントン拍子ぶりが、後の彼の行動や考え方に大きな悪影響を及ぼしたような気が……。

26歳のときから、ガスコーニュ(現・フランス南西部)やフランドル(現ベルギー)を支配下に置くべく、イングランドと戦争をおっぱじめました。
ときのイングランド王・エドワード1世が大陸よりスコットランドに関心を強め、休戦した時期もあったのですが、結局戦争を再開し、フィリップ4世が亡くなるまでの約20年間に渡って小競り合いを繰り返しています。
いつもながら、現地の人が哀れで仕方ありません。

これだけ長期間戦争をするとなると、増税せずに国が保てるわけはないですよね。そこでフィリップ4世は、一般人はもちろん、カトリック教会にまで税を課しました。
当時のカトリック教会といえば「神の代理人である教会と教皇はこの世で一番エライ!!」(超訳)というそれこそキリストに殴られそうな考え。フィリップ4世の態度を不遜と感じ、キレます。
ときの教皇・ボニファティウス8世もそれをアピールするため、全ての聖職者にローマへ来るよう命じたり、「この世で一番偉いのは教皇であるこの私!!」(超訳)と宣言したりと、ありとあらゆる方法で権力を誇示しました。

 

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教皇相手に「ああ言えばこう言う」で口喧嘩して

ここからはしばらく、フィリップ4世とボニファティウス8世の間で、実に大人げない舌戦による政争が繰り広げられました。
フィリップ4世は三部会(聖職者・貴族・市民の会議。フランス革命の時にもキーワードになるアレ)を招集してフランス人の統一意識を作ります。
これに対し、ボニファティウス8世はフィリップ4世を破門。やり返すような形で、フィリップ4世が教皇弾劾を呼びかけるなど、「ああ言えばこう言う」状態がしばらく続きます。
これをいい年した大人、しかも方や一国家の君主、方や三大宗教のトップという二人でやってたのかと思うと実に笑え……嘆かわしい話です。
政治や国際関係なんてそんなもんですかね。

さて、それから数年、舌戦による小競り合いが続いた末、実力行使に出たのはフィリップ4世の方でした。たまたま腹心に異端審問(魔女狩りみたいなもの)で両親を失ったギヨームという男がいたので、そいつに命じて教皇を襲わせたのです。教皇はイタリア山間部のアナーニという町に逃げこみましたが、ギヨームは見事追いついて教皇を捕らえました。
元々ボニファティウス8世にとってアナーニは地元だったので、他の住民たちが協力して教皇を助けだしたのですが、この恥辱と怒りにより、ボニファティウス8世は1ヶ月もしないうちに世を去っています。
68歳という高齢だったこともあるでしょうが、憤死ってホントにあるんですね。

 

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ローマ教皇なのにローマに行かず、とはこれいかに?

これにより一勝したフィリップ4世は、次は自分にとって都合のいい教皇を担ぎ上げようと画策します。それがクレメンス5世です。
この人はフランス・ボルドーの大司教(カトリックの支部長みたいな役職)だったので、当然の事ながらフィリップ4世の影響を強く受けていました。それどころか、ローマ教皇なのにローマに行かず、フランス南東部の都市・アヴィニヨンで政務を執り行っています。

教会からすれば、人質を取られたも同然ですよね。クレメンス5世を含めて6人の教皇がアヴィニヨンにいたため、世界史ではこの時期を「アヴィニヨン捕囚」と呼んでいます。
フィリップ4世が亡くなった後の話ではありますが、これはカトリック教会の大分裂の元にもなりました。
日本で言えば南北朝みたいな感じですね。だいぶ乱暴な例えですが。

教会のトップですらこんな扱いですから、その一部分である騎士修道会など屁とも思っていません。
槍玉に上がったのは、テンプル騎士団でした。唯一成功した第一回十字軍(過去記事:唯一勝利した第1回十字軍 なぜ彼らは争い続けたのか? 【その日、歴史が動いた】)の後、エルサレム巡礼へ向かうキリスト教徒を護衛するために作られた、由緒正しい騎士団です。「テンプル」=「聖堂」ですから、意味合いとしてはまんまですね。

しかし、一番歴史と力があるということは、お金や土地もあるということになります。護衛したキリスト教徒から、寄進として謝礼を受けていたからです。
上記の通り、イングランドとの戦争で財政が火の車だったフィリップ4世が、これに目をつけないはずはないですよね。既に教皇を手中に収めた後なのですから、どんなことだってできて当然でしたし。

 

テンプル騎士団を問答無用で火計にしたから呪われた!?

むろん、何の策もなく、ただコレをぶん取ると非難は必至のため、フィリップ4世は一計を案じます。

「宗教には宗教で対抗すればいい」

つまり、宗教団体がその教えに背いていることにすれば、邪魔者を一斉に始末してお金もぶん取れると考えたわけです。
そこで、フィリップ4世はテンプル騎士団の団員100人以上をいきなり捕縛し、「お前らは神の教えに背いた! だから火計!!」(超訳)という無茶苦茶な宗教裁判にかけてしまったのです。

当時の団長であるジャック・ド・モレーも火刑に処されてしまいましたが、彼は死ぬ直前にフィリップ4世と、その言いなりになっているクレメンス5世に呪いをかけたのだとか。
それが本当に効いたらしく、テンプル騎士団壊滅の年に二人とも亡くなっています。KOEEEEEE!!

この経緯だと、何でフィリップ4世が「寡黙」「敬虔」と呼ばれるのかサッパリわかりませんが、近しい人によると「口数が極端に少なかった」「十字軍を組織し、聖地エルサレムを奪回しようとしていた」「王妃が亡くなったあとは巡礼や修道院の建設に熱心だった」といった点もあったのだとか。

敬虔さについては「私こそが最も経験なキリスト教徒! だから、私が教会を率いるべき!」という考えからのようですので、「何がどうしてそうなった」とツッコまざるをえないのですが。教皇の立場とは一体……。
美形だったのは本当らしいです。写真のない時代ですから、これも証明はできませんけども。

まあ、フィリップ4世と大ゲンカしてたボニファティウス8世やその周りのお偉いさんも、かつて先代の教皇だったケレスティヌス5世を精神的に追い込んで退位させたとも言われているので、どっちもどっちという気がしますが。

こういうときこそ神様も奇跡なりお告げなりをすべきだと思うんですけど、この程度だとお眼鏡にかなわないんですかね。なんてこった。

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長月 七紀・記
参考:フィリップ4世_(フランス王)/Wikipedia




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